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三省小学校 / 川手分教場 / 松代小学校・小屋丸分校 / 真田小学校
所在地 新潟県十日町市松之山小谷 (三省小学校)
〃 松口 (川手分教場)
〃 小屋丸 (松代小学校・小屋丸分校)
〃 真田・鉢 (真田小学校)
「三省小学校」は「三省ハウス」として宿泊施設になってるようで、元からなのか凸凹の有る校舎です。
学校へ行った時は、細い道から校舎入口へ行ったのですが、グランドを一周した時に校門があり、昔の正規の入口はグランド側だったよおです。
入口
校舎全体(組写真) 校門(グランドの奥に体育館)
「小屋丸」集落へ向かって走ってる途中、道沿いの小高い場所に幅広の階段が見え、いかにも学校跡らしい。
喜んで行ってみると、階段の上には校門が見え、おぉぉぉ・・・!(^^)!
校門には、それぞれ「補田口国民学校川手分教場」「青年学校川手分教場」の二つの看板がかかっていると言うか、御影石に彫ってあります。
分教場跡は、広々とした草地・・・そおだわなぁ、何も残ってないわなぁ。
それでも「農本在人」と書いた碑が有るが、廃校記念の碑ではないよおです。
帰ってから、この場所がどこだったか調べてみたが、わからん。
「川手分教場」となっているので、「川手」という地名が付近に有るだろおと思っていたんですが・・・
「補田口」という集落が、統合されたのかもう見当たらず、やっと「十日町松之山松口」付近に昔は有ったらしい事だけが、わかりました。
「take」様より下記の通り、この学校の情報を頂きました。ありがとうございます。 2015.10.29
川手分教場は「浦田口小学校」の分校として設立されました。 浦田口小学校は後の「松之山小学校」です。 (浦田口は昭和34年に松之山へ改称されました)
明治34年に川手地区の児童数が増加したことにより、浦田口小学校の分校として川手分校が作られ、昭和56年の廃校まで続きました。
ここで言う川手は、上川手(かみかわて)という地区を指し、現在の松之山観音寺、松之山坂下、松之山猪之名、松之山橋詰、松之山藤内名、松之山古戸の6つの字を総称した行政上の集落名になります。
このあたりは、十日町市のHPに残る「広報まつのやま 1991年11月号」に詳しく載っています。
また、当時の川手分校が建っている様子が、株式会社いき出版様のホームページに掲載されていました。
リンク先の最下段左側で、昭和56年廃校なので、廃校直前の写真ではないでしょうか。
「小屋丸」集落に着き、さて・・・どこに「松代小学校・小屋丸分校」が有ったのじゃろか?
集落内の地図が掛かっている小屋が有り、地図を見ると集落外れに学校が書いてあります。
とりあえず集落外れまで行きましたが、学校が見当たらず地図の場所まで引き返すと、運良く外で作業しているトッツアンが居たので尋ねてみました。
「この先のY字路の道を右に行くと分校が有る。 ここから見ると、あの木が少し凹んだ付近だが、もう学校は無く何も残ってないよ。
数年前に火事で全部焼けてしまい、残ってるのは 跳び箱代わりにして遊んでいたタイヤだけだ。
いい学校だったんだがなぁ・・・・。
敷地にログハウスのようなのが転がっているが、あれは後から、だれかが作った物で学校ではない。」
教えられた道を行きましたが、学校跡はホンマに何も無く、トッツアンが言うように、タイヤの遊び道具が入口に置いてあり、ログハウスも転がってました。
この学校跡の場所は地元の人に聞かないと、わからんじゃろなぁ、そおいう意味では、住民と会えて運が良かった。
調べてみると「小屋丸」集落は、けっこう歴史の有る集落だったよおです。
上がって来た道 学校跡
「真田小学校」は「絵本と木の実の美術館」になってるよおで、入口にはバッタの「鹿脅し?」が置いて有るのが、いかにも芸術家らしい。
着いたのが夕刻近くだったので、中に入りませんでした。
バッタの鹿脅し?
グランド側 プール側
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