HOME > 全国の木造校舎・廃校「目次」 > 新潟県「目次」 > 新潟-37 早水小学校・吉ケ平分校
所在地 新潟県三条市下田村吉ケ平
撮 影 2014.6.20
新潟県の廃校「早水小学校・吉ケ平分校」へは数年前に行こうとしたのですが、途中で「通行止め」になっており行けませんでした。
数日前の新聞に、この「吉ケ平分校」を壊して新しい施設が来年6月に完成する・・という記事が載っており、こりゃあぁ~早く行かないと壊されちゃうなぁ。
以前に通行止めになってた所にゲートが有り、今回もダメかな?・・それなら歩いてでも行かないと思ってましたが、「熊出没中」の側に有る看板に、通行規制が書いてあり、今日は「終日通行可能」・・良かったぁ。!(^^)!
細い道を走ると、やがて木造校舎の「吉ケ平分校」が一軒だけポツンと見え、校舎裏では新しい施設の基礎工事をしてます。
来て見ると、ちゃんと校門も有るのですねぇ。
校舎 前側
校舎 横(左) 校舎 裏側
外の窓から校舎内部を見ると「吉ケ平分校(山荘)保存会」と題して、校舎保存活動している「雨生会」の貼り紙が有り、ピアノの横に「吉平慕情」と題した詩?が書いてあります。
戸が開くかな?・・と思って開けてみると、ちと固かったが開き、内部は生活感が有る雰囲気でした。
中へ声を掛けましたが、だれも居ません。
先程見た詩?の所に、竹で作った募金竹(箱)が柱に架かっており、校舎保存の募金でしょうか。
もうすぐ校舎が壊されるので、今さら募金してもしょうがないと思うが、内部に入らせてもらうための入場料として100円入れておきました。
勝手に入ったらアカンかったのだろおか?、もし、そうならば勝手に入って、すんまへんでした。
二階の教室は、二段ベッドが作られており、やっぱり山荘としての役割が有ったのですねぇ、管理人が、どこに居るのかわからんが・・・
早水小学校で会ったトッツアンは、今年8月頃には校舎を壊すらしいと言ってたので、この姿が見れるのも後わずか・・・
追記 2014/7に旧校舎は撤去され、新しい建物となり「吉ケ平自然体験の郷」として利用されてるようです。(2020/4/3 追記)
ちなみに県外の人は、あんまり知らないと思いますが、戊辰戦争時に長岡城が落城して藩士・家族が会津藩へ落延びて行く時に、最後の集落である「吉ケ平」集落より「八十里越え」したそうです。
本で読んだのですが、越後藩士達が落ちて行く時、この「吉ケ平」や、その前に有る「葎谷」集落では、乏しい蓄えの食糧を無理矢理に調達されて、エライ目に遭ったらしい。
で・・握り飯なんぞを藩士・家族に配ったけれど、当然全員には行き渡らない。
一人の武士が子供の持ってる握り飯を所望し、母親に断られたが無理矢理に子供から奪い取って食べちゃいました。
母親は「子供の持ってる物を欲しがり、奪い取るとは武士の風上にもおけない」となじり、ハッと気付いた武士は恥じて、その場で腹を切ったそうです。
今、現世・・そのような話しを聞けば、ホンマに母親の言う通りで、武士のツラ汚しだ・・と武士をゴウゴウと非難するでしょう。
しかし、それは食糧が満ち足りて飢餓状態で無い人が言う事であり、人間つうもんはホンマに腹が減ったら人の物を奪ってでも食べると思います・・はい、σ(*_*)も、そうすると思う。
で・・人間、腹が満ちれば理性も戻り、自分のやった事を恥じます。だれが、この武士を非難する事ができましょうや。
そんな逸話が有る「八十里越え」は、かなり難所のようで、1日で全行程の歩きは無理らしい。
これを書いてる時に調べてみましたら「吉ケ平ブログ」 と言うのが有り、拝見すると「八十里越え」を調査され、また「吉ケ平分校」保存のため、並々ならぬ苦労をされたようです。
後日、「吉ケ平分校」に勝手に入ったお詫びのメールを送って、校舎内部写真等をHP公開する事の了解を得ました。
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