H21.6.28 UP
四国・西国・秩父霊場と有名所の霊場とは、遠く離れた新潟の地に住み着いたので、霊場巡りに行きたくても行けません。
そこで写し霊場でも・・と調べると、地元には「越後三十三観音霊場」というのが有りました。
どうせ、どこかの寺が金モウケのために作った観音霊場じゃないか・・と疑いながら調べてみたら、これがあぁたぁ・・・鎌倉幕府の北条時宗が定めたと書いてあるでねぇか。
ホンマかいなぁ・・と猜疑心を丸出しにして、北条時宗を調べてみると、30才位で坊主になったよおでんなぁ。
そいでもって、水戸黄門のようにお忍びで全国を秘かに巡り、謡曲「鉢の木」の主人公となってデビューされてるらしい。
謡曲「鉢の木」を知ってまっか?
ある雪が降る寒い夜に、小汚い旅の僧が貧しそうな一軒家で一夜の宿を乞うと、主人が「まぁ、入りなせぇ」と言って家の中へ入れてくれました。
「ご覧のようなアバラ屋ゆえ、食う物どころか、テレビもねぇ・・パソコンもねぇ。
今流行のケータイなんぞ見た事ねぇ・・
たまに来るのは、天下り機関の、しつこいエヌエッチケー・・
このような何も無い家でごぜえますが、せめて囲炉裏の側で暖を取ってくんなせぇ」
と言い、主人が丹精込めて作った盆栽の木をボキボキ折っちゃい、囲炉裏にくべて燃やしちまったとさ。メデタシメデタシ・・・というような話しです。
まぁ、この話しも事実か創作かわかりまへんが、このようにお忍びで全国を巡った事になってるらしく、そおなるとあるいは越後の国へも来たかもしれまへん。
歴史的にも新潟に居た北条氏の親戚筋である「柿崎何とか」を滅ぼしてるので、越後の土地の事情は知ってはいたよおです。
しかし、あくまで本から知った言い伝え・伝説のタグイであり、北条時宗が「越後三十三観音霊場」を定めたという原文は未だ見ていまへん。
HPで過去に「越後三十三観音霊場」を歩いた記録が有るかと探したが無い・・見事なくらい全く無い。
「越後三十三観音霊場」を車やバイクなどで巡ったというのは有るが、寺の紹介がほとんどで、これから歩くためには、あまり参考にはなりません。
一人だけ「越後三十三観音霊場」を歩いて巡ったという人のブログを見つけましたが、残念ながら歩いた記録は全く記載してありませんでした。
関係寺へ問い合わせてみると、「今を去る事、うん十年の昔、学校の先生が退職してから歩き、その記録をガリ版刷りで作成し、巡った寺へ置いて行った」という話しは聞きましたが今は無いそうです。
昔から「越後三十三観音霊場」が有ったのならば、巡礼記の一つぐらいは残ってると思ったんだけどなあ。
やっぱし言い伝え・伝説のタグイで、後世の人が作ったんかなぁ・・と、半分あきらめながら柏崎市立図書館へ行き、資料探しの相談をしました。
「あんのおぅ・・「越後33観音霊場」というのが有るらしいですけど、その遍路記というか、歩いた道を記録したような資料はありまへんか?」
図書館の人は親切に資料を探してくれましたが、紹介された資料は最近出版された本で車で巡拝したのしかありまへん。
やっぱしなぁ・・と思いながら、本パラパラめくっていると、係りの人が「こんなのも有りますが、私はよぉ~読めないでわかりまへんけれども・・」と言って、ボール紙で表紙を作った手帳のような物を持ってきてくれました。
どうせたいした事無いだろ・・と思って見ると、「越後順礼道志るべと書いてあり、中を見るとミミズが這ったような昔のくずし字で書いてあります。(注:「巡」という字ではなく「順」でした)」
σ(*_*)も、よぉ~読めんが、それでも無理して想像しながら読んでみると、これは江戸時代に発行された「越後三十三観音霊場」の案内記のようです。
ふぅ~ん・・まぁ、何かの参考になるかもしれんと、1枚10円出して全てのページをコピーしてもらいました。
無理して苦労しながら読み砕いてみると、最初の一番・・三十三番のくずし字に書いてあるのは、道筋かと思ってたら、その寺の御詠歌だとわかり、なんじゃ、つまらん、何の参考にもならんでねぇか・・・
次に「逆打ち」と書いてあり、どうやら寺から別の寺へ行くまでの主要地点の地名と距離が書いてあるようです。
ここで、よおやく通っただいたいの道筋がわかりましたが順番はバラバラでした。
最後の方に「この本は越後霊場を巡礼する人のため道筋とならん事を思い書いた」というような事が記載されてます。
次いでこの本の発行年を調べてみると享和二年(1802年)と書いてあるので、少なくとも江戸時代の1800年頃には既に越後霊場が存在していた事がわかりました。
1800年頃と言えば、良寛さんが近所のジャリ共を相手にヒマそうに遊んでいたり、伊能直中が日本地図を作ろうとしていた頃です。
ふむ、それならば、その頃の街道・古道を調べれば通り道がわかるかもしれんと思い、郷土史関係の所で本を探しました。
「中世越後の旅(永禄六年北国下りノ遺足):大家 建(著)」というタイトルで、1563年、京都の僧3人と随行者1名が越後を旅した記録の本があり道筋が書いてあります。
よっしゃあぁ~・・と思い、さっそく借りて読んでみると、今の越後平野はタンボが広がっていますが、当時は今のタンボのほとんどが池やら沼やら湿地帯だったらしく、それを八郎潟のように干拓して今のようなタンボになったようです
。
この本には、そおいう当時の池やら湿地帯の地図が書いてあったので、道路地図に色鉛筆で池等を塗りつぶしていくと、今の新潟市付近はほとんど潟とか湿地帯に沈んじゃいます。
本の記述を見ると、そおいう所は船で渡ったと書いてあり、ほほおぉぉ・・そおすっと、この越後霊場巡りは、湿地帯を避けた道筋とか、あるいは船で移動した事も考えられる。
なお、この僧達は越後霊場巡りが目的でなく、甲州の鶏足寺へ行く途中で越後に寄り、帰りに越後をウロウロして帰ったようですが、当時存在していた地名が書いてあり、もんのすごく参考になりました。
「越後三十三観音霊場」巡りの目処がたち、地図にたぶん昔の人が通ったであろうと思われる道筋に印を付けました。
以下、広告です。