HOME > 遍路・巡礼 > 「越後33観音霊場」地図と目次 > 102 光照寺
H21.8.5 巡礼 H22.10.16 UP
出雲崎へ向かって坂道を降りると右側に車道が有り、これかな?と思って付近を確認すると「善勝寺」と書いた立て札があります。
この道は「四軒寺小路」というハイカラな名前が付いてるようで、この先には「善勝寺」「光照寺」「萬因寺」「念相寺」の4つの寺が有るらしい。
「小路」と言うからには、畑の小道に毛が生えた程度の狭い道だろおと思ってましたが、来てみると想像したよりも広い道です。
少し歩くと道脇に墓が有り、おおぉ・・いよいよ寺が近くなったと思い、広場の案内看板に「越の歴史自然ルート」の下に「ゆり小伝」と書いてあります。
ほほおぉぉぉ・・・どれどれ・・と思って読んでみると・・・江戸時代に「ゆり」というヨメさんが、この付近に住んでおり、家には介護認定もされていない病弱なオババが居ました。
カワイソーな音楽と共に・・・・「オッカサン、お粥ができたわよ。」
「あぁ~・・ゆり・・いつも苦労かけて、すまないねぇ。こんな時に死んだオトッツアンが生きていてくれたら・・・ウッウッウッ・・・(/_;)
「オッカサン、それは言わない約束でしょう。」と、いつもオババを優しく介護をしておりました。
それだけでなく、ダンナの言う事には何でも「はいはい」と口答え一つせず、逆らわず、文句も言わず・・男女同権を主張するタジマのババアが聞いたら「ギャア~ギャア~」と騒ぎまくるような、世にも珍しい、出来たヨメさんだったそうです。
その孝行ぶりが人のウワサとなり、徳川将軍家よりその行状を誉められ、ご褒美をたんまり貰ったらしい。
σ(*_*)も介護してた事が有ったので、天皇陛下とは言わんが、せめて村長の耳にでも入り、お褒めの言葉は、どうでも良いから省略して、金一封だけでもくれたらなぁ・・と思った。
もう一つ案内看板があり「出雲崎おけさの起源」と書いてあります。
それによると源平の戦いで義経に従った佐藤継信・忠信の兄弟の母「音羽の前」が、戦場跡を尋ねようと奥州を出たが先が長い道のりなので諦め、ここ出雲崎で尼僧となり兄弟の菩提を弔ったそうです。
それだけの話しだったら「これのどこが、おけさの起源だ?木戸賃返せぇ。」とモンク言われ、物を投げられるかもしれんが、まだ先が有りますがなぁ・・・だんなさん、落ち着けぇ。
「音羽の前」が兄弟の立派な最期の詳細を伝え聞いた時、うれしさの余り袈裟法衣のまま唄い踊ったのが起源で「袈裟」が「おけさ」と変化したらしい。
それがしが推察するには、たぶん尼さん達は「知らぬ同士がぁ~、小皿叩ぃてぇ~、チャンチキおけさあぁ~・・」と歌いながら袈裟を振り回して踊ったのではないかと愚考いたします。
はっ?、違ってますか・・そおですか・・そおですよねぇ・・すみません・・シクシク・・。
墓の近くに寺があり、これが善勝寺らしく、その境内から階段を下りる途中より寺の鐘楼が見えました。
それが目指す越後33観音霊場の19番札所「光照寺」だと思って喜んでましたが、すぐ右横に山へ上がる階段が有り、ふとその階段入口にある石柱に彫ってある字を読んでみると「越後観音霊場」と彫ってありました。
あらあぁ~・・鐘楼の有る寺は違ってたのね・・石柱に気か付かなかったら、間違って鐘楼の有る寺へ行くところだった。
この付近には寺が4つも密集しており もおチット分かり易く、案内看板か何か書いてくれないと間違えた寺へ入っちまうでえ。
階段を上がると境内に「おねがい地蔵」というのがあり、云われを探したが見つからず、きっとカワイソーな伝説が有るのでしょう。
光照寺の本堂は開いており、その入口前には、お休み用に縁台も置いてありました。
もう夕暮れが迫っており本堂内は暗かったですが、堂内に入って正座して尺八を吹いてると、室内の蛍光灯が点きました。
尺八の音を聞いて「光照寺」の人が点けてくれたのでしょう。 すんまへんねぇ、気をつかわせちまって。
尺八を2曲吹き、「光照寺」本堂を出る時「ありがとうございました」と庫裡の方に向かって大声で礼を言うと、中から「お構いもしませんでぇ・・」と返事が有ります。
この「光照寺」で良寛さんが18才で発心・剃髪して22才まて居たそうです。
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