HOME > 紀行文「目次」 > 熊野古道「目次」・大辺路 > 22 和深川王子神社
2011.4.14旅行 2012.3.22掲載
熊野古道・大辺路「長井坂」の薄暗い杉林を下りると、小さい川が有り、橋を渡った所にベンチがあったので一休み。
「和深川口」と言うらしく、スタンプ台が有るので、ペタリンコ。
スタンプを入れてる箱の中にノートが有り、「刈り開き隊」の人が入れたようです。
ノートを開いてみると「個人情報に触れない程度に・・」と書いてあったためか、詳しく住所氏名を書いてる人は少なく、σ(*_*)は番地を除いて住所・氏名を書いておきました。
まぁ・・確かにあんまり詳しく住所氏名、ましてや電話番号まで書いちゃうと、ややこしい所から手紙や電話が来ますからなぁ。
σ(*_*)なんか電話セールスがウルセェもんだから、数年前より電話帳に載せないようにしたら、だいぶ減った。
遍路・巡礼していて見るともなしに見ちゃう納札には、詳しく住所氏名、おまけに年齢まで正直に書いてる人もおり、そこまで書いちゃうとオバハンか、トッツアンだと、わかってしまい想像出来まっせぇ。
たいていの納札は、一昔どころか四~五昔の遙かなる昔に、花も枯れるほど大笑いしそうな・・あっ、違う・・花も恥じらうような娘だったオバハンか、オババが多かったよおだが・・・・(^O^)
今まで見ちゃった納札のほとんど全部、個人情報が詳しく書いてあったけれど、それも考えもんです。
覚えも無いのに寺から「先祖供養・法要をしないか」という手紙が来るらしく、住所がバレた心当たりは納札だとウワサを聞いた事がありますので、寺だからと言って信用して、なんでも正直に書いたらアカンでっせぇ。
でえじょうぶ・・神様や仏さんは、郵便屋さんと違って、詳しい住所・番地が書いてなくても、ちゃんと、どこのだれが、何のために来たのか、わかってますがなぁ。(^O^)ダハハハ・・・
「刈り開き隊」ノートを見ると、前日に「見老津」方面へ向かってだれか通ったよおですが、昨日の行程を想い出しても、だれとも行き会いませんでした。
ペンチから出発して、ノドカな田園風景を見ながら歩いてると、石垣に立て札のような細い板が貼り付けて有りますが、永年経過のため字が薄れて何が書いてあるのか、よぉ~読めまへん。
「マムシ・・何とか」等がかすかに読めたが、マムシでも売ってるのかな?、何が書いてあるのか、知ってる人いたら教えてね。
そばにスタンプ箱が有り、これはネットで知っていたのとは違って昔から有るスタンプのよおですが、記念に押そうかと思ったが、インクが乾いていたのでヤンピ。
扉には「押印したら必ずフタを トビラの放置も多い マナーの悪い者多し。」と紙が貼ってあり、よっぽど扉を開けっ放しにする者が多かったのでしょう。
歩いてる途中に「丸山の掘割」の看板が出ていたので見に行くと、すぐ近くで、昔はそこが熊野古道・大辺路の道だったらしですが、線路が出来て寸断されたらしい。
付近に「徳本上人の何とか」が有るらしいが、それは行かなかったが、熊野古道・大辺路を歩いてると「徳本上人」って良く出てくるが、だれ?・・σ(*_*)知らんでぇ。
まもなく「和深川王子神社」に着いたので、階段に座って昼食にしましたが、天気が良く小春日和なのですが、木陰はまだ寒い。
食事後、越後屋は道端の日当たりの良い所でゴロンと昼寝をし、σ(*_*)は時間が有ったので神社で尺八を二曲吹いて参拝しました。
その後もまだ時間的に余裕が有ったので、和深川王子神社・拝殿前の階段に座って、目の前に広がる田園風景を見ながら、暗譜している残る四曲を吹きました。
ええですなぁ・・こおいうのが一番理想的な巡礼で、1時間ほど神社で過ごして出発。
歩いてると、イルカの形をした家があり、σ(*_*)はクジラかと思ったのだが・・、それにしても良くこんな家を造ったなぁ。
思っていても、世間体やら何やらで、なかなかこおいう家を作れないものですが、それを実行した家主の方は斬新な考えを持った人だと、お見受けいたします。
σ(*_*)がこんなの作ろうとしたら、まず越後屋が「世間・近所の皆様に会わせる顔が無い」と、ギャアギャア・・とワメキ散らして徹底的に反対するじゃろなぁ。
ここまでされたのならば、家の付近にカモメなんぞを配置して、飛んでるように工夫もされたら、もっと良いと思う。
熊野古道・大辺路「タオの峠」へ入る手前に、木造校舎の廃校が有ったので寄ってみました。
こおいう木造校舎跡つうのは、自分も小学校の頃はイナカの木造校舎に居たもんだから、何か哀愁を感じ懐かしく思うんですねぇ。
校舎は窓ガラスが壊れ、室内には物が置いてあり、グラウンド裏側敷地は草が茂っており、ますます荒れた感じがします。
このような木造校舎の廃校は、手入れされる事も無く何年後かには風雨に曝されて自然に壊れるか、または取り壊されて更地になっちまうんでしょう。
全国に残っているこのような廃校は、後何年そのままの姿を残してるじゃろか。
後世になると、このような写真も貴重になるかもしれん。
帰ってからネットで調べてみると、「協和小学校」という学校名で、明治42年に現在地に移されて昭和48年に廃校になったらしい。
「協和小学校」の直ぐ前に山道が有り熊野古道・大辺路「タオの峠」への看板と地蔵さんも有ります。
道はそんなに荒れておらず、途中に看板だけの「一里塚松跡」が有り、さらに進むと「境目石」が有りました。
山道は車道の近くをほぼ平行しているよおで、やがて舗装された車道に出て、今度は鉄道線路と平行にテクテク歩いて「西浜」へ・・・
恥ずかしながら「YouTube」に尺八独奏「惜別の唄」を載せており、聞いて頂ければ泣いて喜びます。
当「遍照の響き」ホームページに掲載されている写真がで販売されています。
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