H21.7.2 巡礼 H22.8.25 UP.
長岡駅前から小雨の中を、雨合羽着て「越後33観音霊場」札所巡りに出発し、写真のようなカッコウして、地図をいつでも見れるようにブラ下げて歩いてます。
当初は悠久山方面から、次の「越後33観音霊場」の16番札所「椿沢寺」へ向かう予定でしたが、ルートから少し離れた所に「八丁沖古戦場パーク」ちゅう所があり、それに少し近道になるようなのでそこへ向かいました。
この「八丁沖」というのは、今はタンボですが昔は3kmほどの広大な沼・湿地帯で、人が通れないと言われてたそうです。
戊辰戦争の時、官軍に長岡城を奪われた長岡藩士達は、「越後33観音霊場」札所の有る「椿沢」付近に集結し、「八丁沖」沼地の中を通過地点として白い目印をつけ、闇夜にまぎれてその跡をたどって「八丁沖」渡り富島町付近の「八丁沖古戦場パーク」付近に到達上陸したそうです。
官軍としては、まさかこんな湿地帯を通って攻めて来ると思わなかったので手を抜いており、暁の奇襲に驚いた官軍は総崩れ。
長岡藩士達は「死にに来たぞおぉ」と叫びながら、長岡城内に突入し、めでたく城を奪い返したそうです。
その「死にに来たぞぉ」と叫びながら通ったと思われる逆コースの道を長岡市から歩いてみました。
長岡市街地は、あんまり面白くないが、タンボ風景もそれほど変化も無く面白いものではなく、車が通らないだけマシという感じです。
富島町付近に行けば「八丁沖古戦場パーク」の案内看板の一つぐらいは出ていると思ったのですが、これが無いのですなぁ。
やっと町外れに「二十三夜塔」等を見つけ、その付近にチッコイ「八丁沖古戦場パーク」の案内看板を見つける事ができました。
地図には、古戦場パークの場所が載ってなかったので、どの付近かわからず、近くで畑やってたトッツアンに聞くと100mほど行って、右に曲がりさらに100mほど先に有ると親切に教えてくれましたが、ゲッ・・まだ200mほど歩かにゃアカンのか・・遠いなぁ。
パンフレットにも紹介されている場所なんだから、案内図とか目に付くような大きい看板を出しておけば、ええのにぃ。
教えられた通り行きましたが、それらしい物は見あたらず、村のジジババ達が仲良く遊ぶゲートボール場のような場所が有り、まさかそこでは?と思って行ってみたら、そこが「八丁沖古戦場パーク」でした。
おいおい・・「八丁沖古戦場パーク」と宣伝してる割には何ともはや、情けねえパークじゃねぇか。
これでは・・やっぱし恥ずかしくて看板を出せないかもしれんず、村のゲートボール場としては、立派に通用するかもしれんが、「古戦場パーク」という「カタカナ」のハイカラな名前を付けてるもんだから、しっかりそのカタカナにダマされちゃった。
いえね・・別にデズニィランドのような華やかな場所とは思っていなかったが、せめて屋根付き休憩所の一つも有ると思ったのに、来客用施設はゲートボール観戦用の木のベンチが数個有るだけでした。
立派な石碑に「八丁沖古戦場」と彫ってあるが、石碑よりも休息所が欲しかった、トイレは有ったが。
雨に濡れたベンチに腰掛け一服していると「ワァワァー」と言う話し声が聞こえ、やがて小学生の低学年児童20人ほどが4・5人の先生に引率されて公園に来ました。
この公園に来る途中に小学校があり、その玄関先で先生が子供達に何か言ってるのを見ていたので校外授業だったのでしょう。
先頭の先生が軽く挨拶して、子供達に記念碑前に早く並ぶように叱咤しており、うんうん・・なかなか言う事を聞かない年代ですからのおぅ。
先生達は集合している写真を盛んに撮り、ここでしばらく休息するのかと思っていたら「ここは、皆さんが大きくなったら授業で習う場所です」という説明だけで次の場所へ行っちまった。
そおか、社会科で習うには、まだ早過ぎる年齢かもしれんなぁ。
それにしても、せっかく公園へ来たのだから、30分ほど自由時間を取り、ジャリ共が遊び回るかと思っていたのだが・・・
ジャリ共が遊んでいてσ(*_*)の所へ来たら、何人か取っ捕まえて「ねぇ、あの中で一番キライな先生の名前を教えてよ」と聞いてやるつもりだったのにぃ。(^O^)
それともホントは休むつもりだったが、ベンチに小汚い異様なカッコウしたジジイが、笠とリュックを置いて座っていたので人さらいと間違われ、児童達を守るために先を急いだのかな?
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