HOME > 遍路・巡礼 > 四国遍路第一章「目次」 > 愛媛-1 観自在
H15/9/19
宿毛市内より松尾峠へ向かって郊外の宿毛駅付近に来ますと、道がわからんようになるんです。
新しいデカイ道が出来ちゃったもんだから・・・幸い一巡目の時は、なんとかわかったけど・・
「貝塚」の住宅地から松尾峠へ向かっての坂道を上り、最後の家にデカイ犬とニワトリが居て、犬はノッソリ歩いてますが吠えません・・大人しい犬じゃこと・・・ニワトリの方が、たまに鳴くけど・・
ここから関所跡の山道は、所によっては草が生い茂って蛇が出るんじゃねぇかと心配する所も有りましたが、三巡目に通った時は、だれか草刈りをしてくれており、案内の看板も取り付けてありました。
愛媛県との県境にある松尾峠越えはキツイ登りの坂道でっせぇ。
途中で追い越して行った若い遍路と言葉を交わした時、「修行の道場(高知県)」の一番最後に、あんなキツイ登りが有ると思わんかった。」と笑いながら言います。
まぁ・・そのおかげで、ヒーコラ言いながら松尾峠山頂まで上り、茶店跡から眺める宿毛湾の風景は、また格別素晴らしいもんです。
一巡の時は何も無かった「松尾大師堂跡」・・
二巡目は大師堂再建中で、ちょうど休み時間なのか、青いビニールシートの所で声を掛けてもだれも居なかったので、寄付金と納札をテーブルに置いてきました。
三巡目は小雨の中を行き、再建された堂内で少し雨宿りさせてもらいました。
帰るときに堂入口の閂の棒が、ちと閉めにくかったなぁ・・・あっ・・オラが壊したんでねぇぞ。
最初からじゃったんだ・・信じてくんなせぇ・・
二巡時、観自在寺近くの城辺町へ着くと、ジサマが「ぜひ川の土手を歩いて行け、その方が景色がええから・・」と自ら先頭に立ち連れて行ってくれます。
暑い盛りだったので、本当は街の日陰の所を歩きたく、途中に店が有ったら氷水でも立ち食いしょうかなぁ・・と思ってたんですが、せっかくの親切なので、礼を言って教えてくれた通り歩きました。
川向こうにお城みたいデカイ家があったけど、どっかの金持ちの家やろか・・それとも旅館か、何かの研修施設かな?
観自在寺の境内では、高見さんが一人で炎天下の中、ピーチパラソルの下で「松尾大師堂」再建の寄付とパンフレットを参拝客に配ってます。
「今日の予定があるので、誠に申し訳ありませんが1時間だけで良ければ手伝わせてください」と了解を得て、高見さんがビラを配ってる側で尺八を吹きました。
果たして、それが手伝いになったか、どおかは、よぉ~わかりまへんが・・・ちっとは参拝客の目を引き、バックミュージックぐらいにはなった・・と思いたい。
でも見ていると、あんまり参拝客はチラシさえも受け取ってくれまへんでしたなぁ。
高見さんがチラシを渡そうとしても、何か怪しいモンでも売りつけられ、たかられると思ったのか避けて通ります。
側には、いかにもその怪しく汗臭そうな小汚いカッコウのモンが尺八吹いとったし、そりゃあ・・マトモな人は避けて通るかもしれまへんわなぁ。
それでも気の弱い人とか奇特な人がチラシを受け取ると、高見さんは丁寧に必ず「松尾大師堂再建」の話をして理解を求めると、たいていの人は寄付していたよおです。
寄付してもらった人には、必ず住所氏名をノートに書いてもらっており、それをどうするんかなぁ?と思ってました。
後でわかったのですが、松尾大師堂が再建された時に高見さんは、律儀にも寄付した人達に一人一人に再建した案内の手紙を出されたよおで、また松尾大師堂内にも名前を一覧表として貼ってありました。
後日、高見さんと会った時、「貴方の名前が一字しか書いてなかったので手紙を出せなかったが、堂内の寄付一覧者名に、その一字が書いてある」と言われ、三巡時に寄ってみると、ホンマに壁の紙に名前が書いてありました。
観自在寺は、ご承知のように般若心経の冒頭部分「観自在菩薩 行深般若波羅蜜・・」と同じであります。
不信心なσ(*_*)は、観自在菩薩様という尊いお方を探しても、どっか知らない所に居られて、見る事も会う事もなく、ましてや親しくお話する機会も無いだろおと思っておりました。
しかし「庵の坊さん」はこの「観自在菩薩」の意味を別解釈で教えてくれました。
「観」→ 「観る」
「自」→ 「自分」
「在」→ 「在る」
「菩薩」→「修行する人、すなわち遍路してる人」
と一度バラバラにし、再びこれをくっつけて読むと「自分がどこに在るかを観る事が出来る人」
すなわち「自分の心の中を観つめて反省する事が出来る人」から「行深般若波羅密 ・・・」へと続くのだと言います。
ふぅ~む・・そんな解釈も出来るのかぁ・・・皆の衆や、遍路した事の有る、あぁたも菩薩さんらしいでっせぇ。
そおかもしれまへんなぁ・・・歩いてると、昔のいろんな事が思い出され、アイツには、イジワルしちまったとか・・反省もチビッとしますわなぁ。
二巡目に「庵の坊さん」と会って話をした時、それなりに仏教の本も少し読みカジッた知識を基に、もう一度仏教の本質とは何か、どうすれば良いのか?等を聞きました。
仏教の本質とは、自分の心の中に居る神仏を見い出す事である。
生まれ落ちてから心は垢で汚れてしまっており、自分の心に神仏が居るのを気づかないでいる。
そのために常に過去も含めて反省し、心の垢を取り除く事が必用だ。
「仏教の輪廻転生を信じなければ、あかんのか?」
「その通りで、それ無くしては仏教は語れない」と断言します。
オマエが現在思い出せる範囲の反省だけでは、まぁ~だ、まだ足らん。
前世にオマエは、もっと悪い事しとるはずで、そこまで反省しなけりばアカンのじゃが、今はそれを思い出せんだけじゃ。
分かり易い例えを言えば、オメエは幼稚園の頃の事を、覚えているか?よぉ~思い出せんじゃろおがぁ・・・(^O^)」
す・・すまねぇだ・・おでえかんさま・・(;_;)
仰せのとおりでごぜえますだ・・・
オラは罪深いモンでごぜえますだ・・・
ネングをゴマかしたり、ウソこいたりして一杯悪い事しとりますだ・・・
なにとぞ・・お慈悲を・・・(T_T)
なお「輪廻転生は、人は必ず人として生まれ変わり、決して他の動物が人間に生まれ変わったり、その逆の事は無い」との事です。
はっ?・・そりでオメエは仏教を信じたんか?・・・いえ・・その・・・なんせ猜疑心の強い優柔不断の人間でごぜえますので、まだ信じきっておりまへん。
「庵の坊さん」は「こおいうモンは頭で考えるな!!・・スパァ~ンと入って来い。」と言います。
恥ずかしながら「YouTube」に尺八曲「手向」を載せており、聞いて頂ければ泣いて喜びます。
当「遍照の響き」ホームページに掲載されている写真がで販売されています。
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