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 所 在 地  京都府舞鶴市長浜五ツ森
 撮影年月日 2019/3/26


「校旗入場」と練習船/海上保安学校「今は昔」(現役校)

寮生活

現在(2019年)の寮

海からの海上保安学校、2019年  カッターダビッドの有る風景、海上保安学校、2019年

昔(1970年頃)の寮

    海から見た海上保安学校、1970年頃
南寮、海上保安学校 北寮、海上保安学校 北寮二階より海を見る、海上保安学校

 寮は「南寮」と「北寮」が有り、その真ん中に食堂と風呂が有って、自分が居たのは「北寮」で、どちらも二階建ての木造建物です。自習室、海上保安学校

 寝室は分隊毎(約40人)の大部屋で二段ベッドがあり、班毎(10人)に自習室が有り各自に机と本棚一列だけ割り当てられました。

 土日・祭日以外は、原則として夕食後から夜9時まで自習室で勉強しているフリをしなければならず、それでも足りない人は自習延長願いを出して勉強してました。

 自習室の写真風景は、休みの日だったので、くつろいでマンガを読んでいた時の現場写真です。

 寮は木造建物だったので、夜起きてトイレへ行く人のスリッパの音が響き、自分は二階だったが一階の人は天井から響いていたと思う。

 ある日曜日の朝、今日は舞鶴へ行ってパチンコでもしようかなぁ・・と思いながら窓から海を眺めて歯を磨いてると、ちょうど海上自衛隊の潜水艦が沖へ向かって進んでいくのが見え、なぜかその時の風景が今も思い出されます。

「校旗入場」

     北寮と講堂、海上保安学校

 「北寮」の隣に「講堂」が有り、「講堂」は入学・卒業・訓話等のあらゆる儀式に使用され、儀式が始まる前には「校旗入場」があります。

 おそらく海上保安学校で生活した者にとって「校旗入場」は、もんのすごくインパクトが有ったと思う。

 皆が整列している時「校旗入場」の声と共に、カッカッカッ・・と足音をそろえて校旗を持つ人と前後を護る人達の3人が入場し、壇上に上がって校旗を据える動作もキビキビして、もんのすごい緊張感とカッコヨサが有った。

 しかし、ネットで最近の「校旗入場」を見ると、大きく足を上げ靴音をわざと大きくさせ、ゆっくり進むのですねぇ。

 ううむうぅぅ・・なんで、そのように変化したのかわからんが、昔の飾りのないシンプルな「校旗入場」の方が良かったと思うのだがなぁ・・もうあの形の「校旗入場」は見られないのを残念に思う。

 なお「校旗入場」の学生は灯台・水路科各1名から出ていたのは覚えてますが、もう一人はどこの科から出ていたのか思い出せず、たぶん半年教育の普通科からは教育期間が短すぎて出ていなかったように思う。

実習室と射撃訓練場

    機関実習室、海上保安学校、2019年        運用実習室、海上保安学校、2019年
 運用実習室、海上保安学校、1970年頃    実習棟、海上保安学校、1970年頃     自動車練習場と実習棟、海上保安学校、1970年頃

 昔のままの木造校舎で残っていたのは「運用」・「機関実習室」の一部棟だけで、他は全部撤去され新しくなっており、実習棟近くにあった自動車練習場の荒地には、ドテカイ建物が建って、もう昔の殺風景な風景ではありません。

      拳銃射撃場、海上保安学校、1970年頃     拳銃射撃場2、海上保安学校、1970年頃

 拳銃射撃訓練場は、同じ場所でしたが、今は立派な建物内で訓練するようです。

 射撃訓練後の薬莢は回収するのですが、そこはそれ・・人間のやる事ですから、拾い忘れとか行方不明になった物もあり、ヒマな時に班員と来てみると薬莢が一つ転がってたので、探してみると数個落ちてました。

 ホントは、そおいう事をするのは禁止されていたのですが、よせば良いのに標的となる山側へ行ってみると、土に弾がめり込んでおり、さっそくほじくり出したのは秘密です。

 ちなみに、当時の拳銃は「ニューナンブ」と「プローニング」でしたが、現地では旧陸軍の「南部14年式」も使用していましたが、今はどうなのかな?。

 「ニューナンブ」の方が「ブローニング」よりも軽く、撃った時の反動が小さかったかったように思い、また「南部14年式」は撃った時の反動が一番小さかったが、弾詰まりの故障が多く、そのうち採用されなくなったように思う。

練習船「くらま」

      練習船「くらま」、海上保安学校、1970年頃

 自分達の時から練習船はPS型「くらま」となり、以前は大型練習船「みうら」だったそうで、長期航海実習も有ったように聞いてますが違ったかなぁ。

 なんせの舞鶴保安部所属の小型巡視船を練習船として併用していたので、遠洋航海なんて無く、せいぜい「天橋立」への日帰りコースの航海実習でした。練習船「くらま」と実習棟、海上保安学校、1970年頃

 この時も航海・機関と別々に実習を受けましたが、機関実習はほとんど暑い機関室内で温度チェック程度の実習だったように思う。

 航海実習は、交代で舵輪を握ったり見張りをし、見張りに立った時に「何か報告しろ」と言われますが、そんなに報告する事象なんて頻繁に現れる物では無く、しょうがなく浮いていた板切れを「木片、右20度、ヒトマール(距離の言い方)」と適当に報告してました、すいません。

 船を下りて10数年後、遠洋航海の船に乗る機会が有り、コンパスを見ながら舵輪を握らせてもらいましたが、ほぼピタッと一直線の針路を維持することが出来ました(船に乗っていた人なら、この意味がわかると思います)、体に染みついた勘というものは年月を経ても忘れないものですねぇ。巡視船「宗谷」、海上保安学校、1970年頃

 卒業近く、最後の練習航海が終わり、岸壁で整列して船長等の訓話を聞き、最後に甲板長から「・・現地に行ったら、つらい事も有るだろうが、そこはグッとガマンして・・」という言葉が有りました。

 その時までは、コウルサイ・ジジイの甲板長だと思っていたのですが、その言葉を聞いた時に、もんのすごく自分達の事を親身になって見てくれてのがわかり、別れの挨拶「ありがとうございました」をホンキで大声で言えました。

 「保安学校」を卒業した数年後、普通科が廃止され代わりに「本科(だったと思う)」となって1年間の航海・機関科の専用教育となりました。

 そおなると、さすがにPS型「くらま」では、練習航海に不足となったのか、南極観測にも従事した「宗谷」が派遣されて練習船になった事もあります。

   保安大・練習船「こじま」、海上保安学校、1970年頃     練習船「みうら」、海上保安学校、2019年

 「海上保安学校」は自分にとっては、わずか半年間だけ過ごした場所ですが、今も忘れる事が出来ない貴重な青春の1ページです。

 以上で50年ほど前を回想したジジイの戯言を終わりますが、何か参考になったでしょうか。


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