HOME > 全国の木造校舎 > 京都府「目次」 > 13-1 海上保安学校
所 在 地 京都府舞鶴市長浜五ツ森
撮影年月日 2019/3/26
京都府舞鶴市に有る「海上保安学校」は、今も海の護りに集う若者たちの教育機関で、上記写真のように立派な鉄筋校舎が立ち並んでおり、このホームページに掲載している「廃校・木造校舎」シリーズとは全く主旨が違ってます。
しかし、昔の海上保安学校は「本館」を除いて、全て木造校舎でした。
何で、そんなことを知っているのかと言うと、実はこんな顔していますが、自分は昭和43年秋に海上保安学校を卒業した「普通科40期生(一般)」だったのです。
で・・持っている当時の写真を集めてみたのですが、まさか後年このようなホームページを作るとは思っていなかったので、あんまり木造の建物写真はありませんでした・・すみません。
ネットで調べても、昔の保安学校の状況が掲載してあるHPや写真が見つからなかったので、一卒業生が後世に残す何かの資料の一助になるかもしれないと思い、当時の状況や写真を掲載します。
昭和43年(1968年)頃の保安学校は、「灯台科(2年)」「水路科(1年)」「普通科(半年)」「研修科(半年)」の海上保安庁教育機関で、今は科名も教育期間も全く違うようです。
自分は巡視船乗組員の養成を目的とした「普通科(一般)」に入学し、その時から既に「一般・80名」と「衣糧・20名」に分かれてました。
「一般」は、航海・機関科両方+砲・機銃の教育を受け、卒業時に本人の希望は取りますが、たぶんほとんど無視されて、航海へ行くか機関へ行くかは卒業時の配属先が決定するまでわからず、これは「運」でした。
今は入学時からキッチリ航海・機関と分かれているよおで、良い時代ですねぇ。
「衣糧」は、主に船の調理や主計関係の教育だったよおです。
「研修科」は巡視船に乗って5年ほど経験した人が、上級資格を取得するのに再教育を受けるため保安学校へ来た人達で、いわゆる先輩です。
「研修科」の中から選ばれた学生は「指導学生」として、自分達の普通科・各班毎に一人づつ付き、授業以外の時間になるべくヒマを見つけて自習室に来てくれました。
そこで先輩として学校内の規則や相談事・現地での話をしてくれ、卒業後に一度「どうしているか・・」という葉書をもらい、たぶん担当した班員全員に送ったのでしょう、今思っても良い人でした。
ちなみに当時の「海上保安庁」に対する世間の目は、今ほど注目されていなく、海上自衛隊の仲間程度にしか思われてなく、高校では就職担当の先生が「海上自衛隊」のパンフレットを持って来るほど、地味で知られていない存在でした。
海上保安学校に入学した時、校門から「本館」へ続く道の両側に桜が満開だったのが印象的です。
「本館」は、教官やエライ人達が居る所で、めったに学生達は部屋を訪問する事は無く、学級長が授業前の指示を伺いに行くか、または何かをして叱られに行く時だけでした。
毎朝「総員起こし」の号令で服を着替えて、グランドまで走って号令台の前に整列しました。
今は行事?による分隊毎にエライ人の前を通る分列行進をグランド等でやっているよおですが、当時はそのような分列行進をしたことは無く、毎朝の「課業整列」が終わって教室へ向かう時だけ分隊毎に行進しました。
当時の流行歌に「受験生ブルース」と言う歌が有り、その替え歌を仲間と歌ってましたが、当時の様子を良く表しています。
朝は眠いのに起こされて 朝飯喰わずに「人員点呼」 便所でケツ拭くヒマも無く 「課業整列、寮離れ」
卒業しても「イッポッポ」 これじゃヨメの来てが無い 早く船長にゴマすって エラクなりましょ航海長
「イッポッポ」と言うのは、正式名「一等海上保安士補」という階級で、略して「一保補(イッポッポ)」。
6か月教育を受けて現地に派遣されて「イッポッポ」になり、その6ケ月後に全員メデタク「三等海上保安士」になりましたが、もうこの「イッポッポ」という階級は名前だけのような気がします。
また船長・航海長の役職名の所は、適当に自分が希望する職名に入れ替えて歌ってました。
「卒業生見送り」の時は、「本館」より一列になって卒業生が出て来て、校門で待っているバスまで歩調を合わせる事も無く歩き、在校生は海側通路に立って、これまた特に敬礼もせず拍手で送ったような気がする。
ちなみに「卒業生見送り」写真は夏の制服で、旧海軍将校か航空自衛隊のような鼠色したカッコイイ制服でしたが、なんで廃止しちゃったのかなぁ。
約50年降りに訪れた「海上保安学校」は、予想通りほとんど昔の建物が建て替えられて新しくなっていますが、海側のカッター・ダビッド(短艇を吊り下げる物)だけは、唯一昔のままの風景で変わらんなぁ~。
「カッター・ダビッド」付近には「20mm機銃」の台座や、「3インチ砲」が有ったのですが、今はどこかへ捨てられちまったのか跡形もありません。
もう機密では無いと思いますが、自分が乗っていた巡視船「PM07 げんかい」には、前に「3インチ砲」・後ろに「20mm機銃」が付いてました。
数年前に同期会があった時、同期の一人が「保安学校の授業は、ホンマにわからんかったなぁ」とシミジミと言ってたのを聞き、あぁ・・授業がわからんかったのは自分だけではなかったのだ・・と、なぜかホッとした。
そおですわなぁ・・今まで機銃とか砲なんて、見た事も触った事も無いノホホンとした者に、その専門用語を用いて機構を説明されたりしても、わかりまへんわなぁ。
しかも、たった半年で航海・機関の事は兎も角として、刑法・刑事訴訟法という、これまた今まで無縁で聞いた事も無いような法律の授業を受けても、そりゃあぁ~聞いてるだけでも眠たくなります。
ネービーブルーのダブルの制服を着て立っている、国際信号旗を掲げるマストも無くなってます。
このダブルの制服を着た時は、嬉しかったなぁ・・後年、予科練のジサマが「七つボタンの制服を始めて着た時は嬉しかった」と言ってた気持ちは良くわかります。
研修科を除いて学生が外出する時は必ず制服着用で、舞鶴の町を歩いてると海上自衛隊の水兵さんが、下士官と間違って良く敬礼してくれました。
ちなみに、普通科40期が最初と言われるものが「3つ」有ります。
「1 海上保安体操」・・・以前は「海軍体操」だったそおです。
「2 白い事業服(20mm機銃・3インチ砲で着ている服)」
以前は茶色の作業服だけだったそおですが、座学授業や生活時は白い事業服を着るようになった。
茶色の作業服は実習の時に着用し、現地の巡視船に乗っていた時も、ほとんどこの作業服で過ごし、白い事業服は保安学校だけでした。
「3 航空学生」
それまでは保安庁で飛行機のパイロットを養成していませんでしたが、40期生の2名が卒業と同時に海上自衛隊・小月基地へ初めて派遣され、以後各期毎に2名づつ派遣していたよおです。
これは本人の希望というより上からの命令で(たぶん教官たちの推薦・決定等が有ったと思う)、本人たちにしてみれば「寝耳に水」で思ってもいなく、まさか・・と、かなり戸惑ったらしい。
風のウワサで聞いたのですが、一人は途中で辞めたらしく「一度で良いから巡視船に乗りたかった」と手紙に書いてあったそおです。
そおですわなぁ・・せっかく船に乗る夢を持ち続けてガンバッて来たのに、自分の意思も聞かれず、いきなり最後になって目標とは違う職種へ就かされたのでは、「運が悪かった」どころでは無かったと思う。
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