国上山へ行くのに「大河津分水路」を渡ります。
今でこそ、この付近一帯は稲作のタンボが広がっていますが、江戸時代頃は湿地帯で川の水位よりも低い土地が多く、そのため信濃川の氾濫等により、食う物も無く、腹を空かせたカカアァとガキが口を開けて家で待っており・・というドエライ有様だったらしい。
そこで近所の庄屋さん達が代官所に陳情し、信濃川を分岐して直接日本海に通す計画をしたのですが、こおいう事は利害関係が絡んで賛否両論が出るのが世の常・・・
おでえかん様へ、袖の下が足りんかったのか・・
信濃川の川水を途中から海に流すと、「新潟港の水位が下がるから精神的苦痛により、謝罪と賠償を・・」と、隣国のマネしたユスリ・タカリの拡声器でガナリ立てたのか・・
せっかく工事を実施したのですが、あんなこんなの利害関係が絡み、大揉めにモメて、ムシロ旗を立てての一揆やら、何やらで中止となり、明治42年、やっと工事を再開して「大河津分水路」が通水したそうです。
そんな歴史の有る「大河津分水路」に架かる「渡部橋」を渡り、良寛さんが国上山に有る「五合庵」から托鉢しに山を下りて歩いた「国上」集落を行きます。
どうもこの集落から「五合庵」へ上がる道が地図では、よぉ~わからず、この道は「西大門」と言われる参道で、別の箇所に「東大門」という国上寺へ行く昔ながらの参道があります。
「国上」集落を歩いてると別れ道に「五合庵」と書いた矢印の看板と側には石仏も有り、良かったヨカッタ・・と喜びましたが、詳細地図では、もおチット向こう側から上がる事になってます。
人家は有りますが、人は外に出ていないので、そこらをしばしウロウロ・・・
目的地は「五合庵」の手前付近に有る「本覚院」と「宝珠院」へ寄りたかったのですが、その寺名が書いてないので、道が違ってたらイヤだなぁ。
詳細地図を信じて矢印の道をヤンピして歩くと、犬をつれたトッツアンが居たので声を掛けて聞くと、詳細地図の道でも良かったが、あのまま矢印の道でも良かったのね。
山の急坂車道を上がると、S字カーブの所に地蔵さんと山道が有り、「西大門」の登り口が有りました。
S字カーブをショートカットするような急な山道で、良寛さんも托鉢の茶碗を抱えて行き来して、雨が降った時なんか、山道を滑って茶碗を壊したかもしれまへん。
参道を上がった所に建物が有り、これが「本覚院?」と思ったが、お堂なのか単なる物置なのか、名札が無かったのでよぉ~わかりまへん。
この「西大門」参道は、よほど歩く人が居ないのか草が生えており、道には竹も出始めています。
まぁ、そおでっしゃろなぁ、たいていの人は車で上がりますわねぇ。
再び山道を上がると「良寛の月見坂」という看板が出て車道に出ました。
この風流な「月見坂」の云われは、良寛さんが客と酒を飲んでると、酒が無くなっちまったので、良寛さんが麓で酒を買って来ると言ったまま、いつまでも帰って来なかったそうです。
心配した客は、これはヒョットして北朝鮮に拉致され、今も多くの拉致された人達と一緒に助けを待っているのではないか・・と思って探しに来ると、この付近の松の下で口をあけて寝てたらしい。
車道へ出てどちら方向へ行けば良いのかわからず、正面の崖には墓へ上がる階段が有り、これかな?とも思いましたが、墓だけのよおなので左側に少し行くと建物が見えました。
近寄って見ると、階段が有り「宝珠院」「本覚院」へ行けるようで、更にそれより上がる階段が有ったので「五合庵」へも行けるのでしょう。
「宝珠院」は無住の堂かと思ってましたが人は住んでるよおで、たぶん先程の墓を上がると、ここの境内へ出ると思われます。
「本覚院」は苔が素晴らしいと聞いており、「舟御堂」と言う看板の有る門を入ると「霊石 姫地蔵尊」と書いた立て札と地蔵さんを奉った堂が有りました。
「この地蔵尊は某家に無縁水子精霊顕れ、その供養のため安置建立いたしました 謹んで拝礼いたしましょう」と書いてあるが、もおチット詳しい説明が欲しいなぁ。
拝礼しないと水子の霊が祟るのか、拝礼したらシアワセになれるのだとか、その他何か意味があるのか・・だれかカシコイ人教えてね。
「弁慶井戸」ちゅうのが有り、柄杓が有ったので水を飲んでみました。
予定では本覚院・本堂で尺八参拝するつもりでしたが、5時過ぎで遅くなり、この後も「国上寺」に参拝して山を下りなくてはならんので省略しました。
本堂横へ行くと「舟御堂」というのが有り、苔むして、ちっこい石仏が所々に置いてあり、よぉ~風景にマッチしています。
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