HOME > 「全国各地の霊場巡り」目次 > 「九州西国33観音霊場」目次 > 43 南風崎駅
2015.10.4 巡礼 2016.11.4 UP
国道を自転車で走り、「和田平」付近で旧道と思われる所があり地図を確認すると何となく通れそうです。
走ってみると、けっこう距離が長く、車が通らず脅かされる事もなく、海沿いの道で良い道でした。
川棚駅で一休み
「小串」付近で、海沿いで遠回りするか、すなおに国道の峠越えをするか迷ったが国道を選びました。
「山口谷」の山越えもきつかったが、次の「松岳」の峠越えは、もっときつく途中の木陰で一休み。
南風崎駅は国道から少し離れており、この駅だけは計画段階から、どおしても寄ってみたく、ちなみに「南風崎」は、「みなみかぜさき」ではなく、「はえのさき」と読みます
何で読みにくい「南風崎駅」に寄りたかったのかと言うと、σ(*_*)が美青年の頃・・今から30年ほど前に一度来た事があり、どれ位変わったかなぁ・・と思って見たかったのです。
「南風崎駅」駅舎は新しくなっており、木造駅舎の面影は無く、当時と違って駅付近は閑散とした無人駅になってました。
で・・当時「南風崎駅」へ何しに行ったのかと言うと、σ(*_*)の父が終戦後に「佐世保へ上陸した」という話をしていたので、たぶん懐かしいだろおと思って、「浦頭(佐世保)引揚上陸地」の写真の一つでも撮って見せれば親孝行の足しにでもなるかと思ったのです。
当時、南風崎駅には駅員さんも居たので、許可を得て駅舎と線路の写真を撮り、聞いてみると「浦頭(佐世保)引揚上陸地」には、まだ建物が残っているとの事で行ってみました。
ちなみに引揚地名は「浦頭」と言うらしい。
けっこう「南風崎駅」から離れた所に有り、「浦頭(佐世保)引揚上陸地」は草が茂ってる校舎のような木造建物が数棟建っており、門の看板には「佐世保検疫措置場」と書かれています。
事務室らしい所に人が居る気配が有ったので、声をかけるとジサマが出て来たので、来訪の意を述べて敷地撮影の許可をもらい、「浦頭(佐世保)引揚上陸地」をウロついて撮影しました。
終わってジサマに礼を言うと、事務室に招き入れてくれ話をしました。
引揚事業は既に終わっているが、戦後30年近く過ぎても厚生省の命により、何かのためにジサマ一人が残って事務関係等をしているそうです。
父の引揚時期を聞かれ、何年かはわからないが軍人だったと言うと
「早い方の引揚げだったので帰れた。 遅かったらシベリア送りになっていた。
引き揚げて来た人達は、早く故郷に帰りたいので南風崎駅までゾロゾロと歩いて行った。」
というような話しをしてくれ、帰りにジュース缶1個くれました。
父は満州で終戦を迎え、陸軍下士官をしており、当番兵というのが付いていたそうです。
その当番兵というのが良く出来た人だったらしいのですが病気になり、父が日本へ引揚る時に病床へ見舞いに行くと「○○さん(父の名前)、ワシを置いて帰られるのか・・」と言ったそうです。
父は「病気が治ったら帰れるから・・」と言って慰めて別れたそうですが、父が帰国後にその当番兵の消息を尋ね探しましたがわかりません。
当番兵の家族は母一人、子一人だったらしく、せめて母親にでも会いたく、出身地の地元役場とか親戚の人達にもツテを頼って探したよおですが、やっぱりわからなかったよおです。
「佐世保引揚地」の写真を父に見せた時、「わかった(そのような場所だったという意味)・・。」の一言だけでした。
もっと懐かしみ喜んでくれるかと思ったのですが、それ以上は言わず、ひょっとしたら思い出したくなかったのかもしれず、今となっては心情はわかりません。
現在の「引揚第一歩の地」碑の有る所に、白黒写真の建物が有ったのですが、現在は昔の面影は全く残ってません。
今となっては、当時撮影した「浦頭(佐世保)引揚上陸地」の白黒写真が、当時を知っている貴重な物かもしれません。(白黒写真・追加添付 2020/9)
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