「諏訪・安曇」グループを終えて、これより長野県の最北霊場より善光寺に向かって南下する「南下」グループを記載します。
「信濃三十三観音」霊場の最北端は、19番札所「菩提院」で車で行きました。
「針田」集落の道に鳥居が立っており、「小菅神社第二鳥居」と言うらしい。
鳥居を潜ってから19番「菩提院」へ行くまでの道は、上りの坂道が延々と続いており、自転車で来てたら押し歩きで、ドエレエ目に遭っていたと思う。
道端に石碑群があり説明看板が有ったので、土手に上がってわざわざ看板を見に行きました。
しかし説明看板は、永年経過のためか字が読みにくく「・・・の力石 ・・・仁王門に参拝し・・「うーん」と・・・」だけしか読めず、全く何が書いて有るのかわからんかったので、関係者の人がこれを見ていたら直してね。
「小菅」集落入口付近に仁王門があり、これまた読みにくい説明看板だったが石碑群の看板よりも読みこなせ、中には仁王さんも、ちゃんと番をしていました。
「小菅」集落の「火の見櫓」脇を通って「講堂」近くの広場の駐車場に車を置き、近くに「いにしえの歴史に香る浅葉野の里」と書いた大きな案内絵図が有り、これはわかりやすかった。
「講堂」を最初に見た時、建物が古かったので、これが信濃33観音霊場の19番札所「菩提院」観音堂かと思っちまったが、絵図で確認すると、もっと山の麓へ行かなければアカンようです。
「講堂」の縁下には古い雪橇が置いてあり、だれが使っていたのでしょうか、今は、こおいうのは、あまり残っていないので骨董的価値が有ると思う。
これを書いてる時に調べたのですが、「阿弥陀堂だより」のロケ地が、この「講堂」裏に有る「小菅神社 里宮」で有ったらしい。
わかっていれば話しの種に行ったのですが、長い階段が有り、「菩提院」観音堂を参拝した後、小菅神社「奥社」へ行くつもりだったので、「小菅神社 里宮」は大した事がないだろおと思い、省略しちゃって行きませんでしたが、今思えば行っておけば良かった。
人家の脇道のような所を通って行くと19番札所「菩提院」観音堂は、そんなに遠くなく、入口に六地蔵が有る、こじんまりとした観音堂です。
信濃33観音霊場の19番札所「菩提院」観音堂内は開放されてるので入る事ができ、オマケに提灯に電気まで点いてます。
観音堂内には人物が沢山描いた奉納額が有り、数えて見ると100人描いてるようで「百人一首」の作者を表しているのでしょうか?、だれか知ってる人が居たら教えてね。
ちなみに「明治19年8月15日(1906年) 浅葉野婦人会」が奉納したよおで、100年余りの月日が過ぎても保存状態が良いのか新しく見えます。
観音堂内には、いかにも古くからあるお堂らしく、壁板には墨であちこちに一杯落書きしてあります。
屋号や達筆な字で「天下太平・・奉納・・当國・・文化11年」と書いてあり江戸時代の物でしょうか。
文化11年といえば、調べてみると1814年の江戸時代で、今から200年前の人が書いたよおで、それにしても字が上手だなぁ。
字だけでなく、絵も描いてあり、女の人が座って手鏡を見ている?絵は、着物の模様も省略する事無く、また下絵や印を付ける事なく、いきなりサラサラと描いたよおで、なかなか絵に慣れた人が描いたように思う。
他にもタコが棒を持ってる?ような、わけのわからん物や、山伏?が弓矢を構えている落書きもあります。
鉛筆やマジック等ではなく、たぶん墨で描いてあり、そこらの近所の悪ガキが描いたのではありません。
200年前の江戸時代に書いた落書きなんて物はそお見られなく、もんのすごく価値が有り珍しいものだと思う。
地元の人達には珍しくないかもしれんが、世に知られていない江戸時代の珍しい物を、こおやって偶然に発見する事が出来るのは、やっぱり巡礼しているための御褒美かな。
観音堂横の墓場を抜け、「菩提院」納経所の横道を通って小菅神社奥社へ向かいました。
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