H20.5.3 巡礼 H21.12.26 UP
前回打ち止めした笠島駅に、約3週間ぶりに来ました。
笠島駅より少し坂道を上がると小さい川が有り、その側にブロックの箱家に10体余りの石仏が入ってます。
たぶん、立派な笠島漁港が出来たから、その海岸付近の石仏を整理して集めたんじゃないかなぁ・・・と想像してみるが、間違って、だれかの墓だったのかもしれん。
笠島から国道8号線に出るまでの景色も良く、中越沖地震で崩れてなかったら「聖ケ浜」から「笠島」までの旧道を歩くのは、商業的看板も無く、ホントに知られざる隠れた景勝地だと思う。
ちなみに「笠島」付近のホントの旧道は、 親不知・子不知のような浜沿いの道だったらしいです。
「青海川」の旧道へ入り・・と言っても、国道8号を歩くのとあんまり距離的には変わらない旧道をフラフラ歩いてると、草地に門柱のような物が建ってます。
だれかの家が震災で壊れたので、門柱だけが残ったのかと思ってよく見ると、ゲッ!!・・・畏れ多くも、モッタイナイ・・・m(_ _)mハハアァァァァァ~・・ッ・・「明治天皇・・・」何とかと書いてあるではねぇか。
たぶん明治天皇が、一般庶民は飢えに苦しんでねぇかと心配して御巡幸し、ここらで一休みした所なんでしょう。
そおいえば最近の天皇は気の毒な事に、民主党政権になっちまったら、朝貢外交議員の「汚沢」がエラソーにし始め、イヤな思いをされましたなぁ。
「アカン」と言っとるのに、「汚沢」自身にハクを付けるため、今までの慣例を破って無理矢理どうしてもこうしても、ごり押ししてでも中国要人を天皇に会わせて、自分勝手な理屈を付けて開き直っとりました。
朝敵の「汚沢」議員は、中国に若手議員等を含めた600人を引き連れて、恥ずかしくもなく朝貢外交しに行ったのだが、中国は腹の中で、アホな連中やなぁ~・・と、セセラ笑っていたと思う。
金魚のフンのようにくっついて行った若手議員は、どんなつもりで行ったのか知らんが、後世にどのような評価を受けるだろおか?
旧道が国道8号線とぶつかる所に「古い大木」が生えており、その前には酒屋さんがあって「酒の新茶屋」と言うらしい。
その酒屋の玄関前に大きな古地図が貼ってあり、そこには、おぉぉ・・・旧北国街道が描いてあるでねぇか。
酒屋敷地?の「古い大木」付近に、白い木杭の標識があり「旧北国街道」と書いてあります。
その旧北国街道は?・・と見れば、セメント道の狭い急坂が下へ降りており、この標識が無かったら農道か私道だと思うじゃろなぁ。
昔から名の有る街道ならば、大名行列も通るだろおし広い道幅だと思いますが、でもやっぱし「北国街道」は農道のよおな道幅なんですねぇ。
入口には地震の復旧作業工事のためか、海側に転がり落ちないように鉄パイプの手摺りがしてあり、一応「通行止め」の看板もありますが、他人の言うことを聞かない悪い子だから、通っちゃうもんねぇ~。
この北国街道の急坂・・まさか天皇様は歩いてまへんよねぇ・・・後で調べると板輿に乗ってたらしいが、天皇様も板輿にしがみついてるのがやっとで、きっと「来なければ良かったなぁ」と後悔したと思う。
山の斜面は地震で崩れて、その補修工事のため鉄パイプのヤグラが、ジャングルジムのように立っています。
谷間を隔てた向こうの山側斜面には、「北国街道・六割坂」が九十九折りになってるのが確認できました。
この「青海川」付近を、本やインターネットで事前調査した時に、旧北国街道に「六割坂」の存在が有った事はわかったのですが、今もその坂道が残ってるのか、不明でしたが、斜面の九十九折りを見て「あっ、残っていたのだ」とホッとした。
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