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 番神堂・彫刻、「越後33観音霊場・只一人」紀行文H20.5.3 巡礼    H22.1.17 UP


御野立公園と番神堂/越後33観音霊場・只一人(柏崎)

御野立公園

 柏崎市「鯨波」のガードレールを潜り、すぐに線路に沿ってテクテク・・・旧道の道筋は、たぶん線路が出来たので道が切断されたんでしょうなぁ。鯨波駅、「越後33観音霊場・只一人」紀行文

 越後33観音霊場を歩いて、だいたい旧道の探し方がわかり、全部とは言わないが、バス路線のある道が目安になります。

 「御野立(おのだち)公園」ちゅうのが道筋に有り、この公園には畏れ多くも、モッタイナイ云われが有り、はるか明治時代に天皇様が来られた際に、この松林で茶をすすりながら日本海を眺めたそうです。、御野立公園よりの展望、「越後33観音霊場・只一人」紀行文

 お茶は普通「野点」と書くんだけれど、何で「野立」という字にしたのかわかりまへん。

 ひょっとして名前を付けた時に、字を間違えたちまったのかしら? 御野立公園よりの展望、「越後33観音霊場・只一人」紀行文

 そおいう細かい詮索は抜きにして・・・「御野立公園」は、景色も良い所なので、そりゃあぁ~松林に赤い毛氈を敷いて、「野点」をしてもらいながら海の潮風に当たり、ちょっぴりゼイタクを言うならは、キレイなネーチャンが琴なんぞ弾いていてくれたら、もう最高の場所です。

 また、ここは戊辰北越戦争の時に「鯨波戦争」になった古戦場だそうな。

 あんまり有名でないので知らん人が多いと思うが、ここ柏崎には桑名藩の飛地が有りました。御野立公園、「越後33観音霊場・只一人」紀行文

 会津と桑名の殿様は兄弟であり、戊辰戦争の時に桑名藩は官軍に付くか迷った時に、官軍に付く事を主張していた家老が暗殺されちまい、官軍と戦う事になりました。

 そいで、この「御野立公園」付近でドンパチが有ったらしく、会津・桑名藩側が最初は勝っていました。

 しかし、「小千谷」方面で戦っていた仲間の旧幕府軍側が負けちまったもんだから、柏崎を守る意味が無くなり、1日戦っただけで長岡方面へ撤退しちゃったそうです。

番神堂

 旧道をテクテク・・・「番神堂」ちゅうのが旧道より少し入った所にあり、このお堂には、それはそれはカワイソーな伝説があります。 番神堂、「越後33観音霊場・只一人」紀行文

 昔、日蓮ちゅうお坊さんが、お上に逆らって佐渡へ流されましたが、嘆願書が出たのか袖の下が効いたのか、罪を許されて本土へ帰る事になりました。

 日蓮さんが喜んで佐渡から乗った船は、寺泊に行く予定でしたが、何が気にいらんのか嵐になっちまいましてなぁ・・・

 当時は天気予報が発達していなかったので、今で言えば前線の通過でも有ったのでしょぅかねぇ。

遭難

 実はσ(*_*)も昔、モータボートのようなチッコイ船に乗って僚船と共に作業をしていた時、寒冷前線通過により天候が急変して遭難しかかった事があります。

 穏やかだった海が、冷たい風が吹いた・・と思った瞬間から強風になり、静かだった海が瞬く間に荒れ狂い、時間と共に6mほどのウネリになりましてなぁ。

 6mちゅぅたら二階建ての屋根くらいの高さでっせぇ。

 同じ作業をしていた他のモータボートは、近くにいる所属大型母船に、蜘蛛の子を散らすように逃げ帰り始めましたが、σ(*_*)の船だけは母船が無く、遠く5kmほど離れた基地へ1隻だけで帰らにゃあきまへんでした。

 船には相棒が一人だけ乗っており、彼に操船させて、σ(*_*)は船に溜まった海水をセッセッと汲み出していました。

 心細かったなぁ・・チッコイ船で単船、見渡す限り壁のように押し寄せて来る大ウネリの荒海を乗り切るのは・・・

 陸地は見えましたが、岩に砕け垂直に立ち上がる白波が遠目でも、よぉ~見え、2回ほどエンジンが停止して、もうダメかも・・と思った時が有りました。番神堂・彫刻、「越後33観音霊場・只一人」紀行文

 そんな時、それほど大きくもない18m型の僚船1隻が近づき、こちらの速度に合わせて伴走してくれました。

 こちらの船よりも、はるかに大きい艇でしたが、やはりこのウネリため艇は荒波に揉まれて見えなくなったり、時々赤い船腹を見せており、見ていても転覆するのじゃないかと心配するほどです。

 伴走してくれてる艇も早く自分の基地に帰りたいだろうに、また自分の保船さえ自由にならない中を、こちらの速度に合わせて、後になり先になったりして見守ってくれています。

 波間に見え隠れなしがら伴走してくれている、そんな艇を見てると、

 「ここでたとえ命運尽きて死んだとしても、自分の最後の瞬間を看取ってくれていた者が居る。

 伴走してくれている艇も遭難するかもしれない危険な状況なのに、それにもかかわらず仲間の船を最後まで見捨てる事なく、最善を尽くしてくれている。

 ここで任務遂行による殉職したとしても、これ以上何を望む事があろうか・・これで良しとしよう。」


 という自分の最期の状況を家族に伝えてくれる者が居るのだと思って、妙に冷めた安心感が有りました。

 死に直面した時の状況により、その考え・思う事は違うかもしれませんが、この時はジタバタする考えは全く起きなく、この時ほど「どんな事が有っても、絶対に仲間を見捨てない船乗り魂」というものを強く感じた事はありまへんでした。

 後日、艇長に礼を言った時「2度ほど船を見失い、沈んでしまって遭難か!!・・と、ブリッジが騒然とした事があった」と笑いながら言いました。

 幸い無事に基地まで帰る事が出来ましたが、バッテリー端子近くまで海水が溜まっており、もう少し帰る距離が長ければ、確実にエンジンが停止して起動不能となり遭難していたでしょう。

彫刻

 あっ・・はいはい、くだらねぇ思い出話しより、日蓮さんの話でしたね。 番神堂・彫刻・ガラスに囲まれている、「越後33観音霊場・只一人」紀行文

 嵐に遭って寺泊へ行く予定が、この地に流れ着いたそうで、その流れ着いたという岩も海岸に有るそうです。

 番神堂は、昔一度見た事があり、ここの堂にはスゲエ彫刻が有ります。番神堂・彫刻・光が反射している、「越後33観音霊場・只一人」紀行文

 もう一度見ようと思って荷物をベンチに降ろし、本堂の裏側?へ行きましたら、前は無かったのに三面をガラス?張りされており、反射するため彫刻が良く見れません。

 彫刻の中に「一匹の蝶を見つけると幸せになる」という言い伝えがあり、昔は見つけましたが、今になって過去を振り返るとホンマにシアワセだったのかどうか・・・

番神堂・彫刻、「越後33観音霊場・只一人」紀行文     番神堂・彫刻、「越後33観音霊場・只一人」紀行文

 今回は反射のため蝶を見つけるどころか彫刻も良く見えず、かろうじて縁の下?に彫ってある「波と亀」「鳳凰と桐」「雲と龍」が見る事ができましたが、惜しいでんなぁ・・壁面の彫刻がスンゴイのになぁ。

 反射しないガラスとか、もおちっと壁面の彫刻を見れるように工夫してくれればええんだが、これじゃぁ・・おあずけを食った犬みたい感じです。

諏訪神社

 腹が減ったので、番神堂・境内のベンチでバナナチップを食べてると、大阪弁のオバハンが「たらい舟が有ると聞いたが、どこか?」と尋ねたので、「すぐ近くの諏訪神社に有る」と、その方向を教えました。 諏訪神社、「越後33観音霊場・只一人」紀行文

 出発して「諏訪神社」近くを通り、寄るつもりは無かったのですが、道端の案内看板に「・・・龍頭の入目龍は生きてるように見える・・」と書いてあったもんだから、そりゃあぁ~是非確かめないと・・と思って寄りました。

 諏訪神社入口付近に「おべんが松」というのが有り、これが佐渡情話のカワイソーな話になった舞台地だそうです。 諏訪神社・おべんの松、「越後33観音霊場・只一人」紀行文

 諏訪神社・境内で先程のオバハンと会ったので「大した事なかったでしょ」と言うと苦笑いしてた。

 「たらい舟」というのは、佐渡の「小木」付近で「たらい」のような舟で、サザエ・ワカメ等を採ったりするのに使われてます。諏訪神社・太古錨、「越後33観音霊場・只一人」紀行文

 で、σ(*_*)も「たらい舟」が飾ってあるのを見て来たが、やっぱり大した事がなかった。

 その近くの草むらに鉄の塊が置いてあり、看板に「太古錨」と書いてあり、日蓮さんがここに着いた時の錨だというが、ホンマか?

 それにしても、もおチット飾るにしては、それらしくしておけば良いのにぃ。

 そいで「諏訪神社」本殿・龍の彫刻を見ると、うん確かに、よぉ~出来てると思う。

          諏訪神社・彫刻、「越後33観音霊場・只一人」紀行文


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 恥ずかしながら「YouTube」に尺八独奏「手向」を載せており、聞いて頂ければ泣いて喜びます


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