H21.6.16 巡礼 H22.8.7 UP
「越後33観音霊場」の札所「真福寺」より信濃川へ向かって、テクテク・・・
信濃川の土手を歩いてると、前方に赤い鉄橋が見え、何かの工事現場か鉄橋を製作する場所だと思いましたが、ところが、あぁたぁ・・近寄ってみると、そこが「河川公園」で、赤い鉄橋は池に架かってたんですねぇ。
もおちっと情緒のある橋にすれば良かったのにぃ・・まぁ目立つには目立つけれどね。
木陰で昼寝してる人もおり、東屋があったので、そこで一休みしました。
持ってきたペットボトルの残りが少なく、この先は長岡市内に入らず、信濃川沿いの土手道を歩く予定なので、自販機が無い事が予想されるので余り飲まなかった。
一休みした後、再び信濃川の土手道を歩き、今まで川沿いに茂っていた樹木のため信濃川が見えなかったのですが、木が途切れた所から一面に広大な信濃川と、それに架かる長い「越路橋」が目に入りました。
いやあぁ・・改めて見ると信濃川は大きい川ですねぇ。
戊辰戦争時において、長岡市内に近い場所で、官軍がこの広い信濃川を渡河作戦により長岡城を奇襲して落城させました。
その頃、長岡藩は小千谷に陣を敷いていた官軍を奇襲するため、主力を朝日山付近に置いて、川を渡るため船を集めており、その決行日の1日早く先に官軍側が渡河作戦で長岡城を奇襲しちまったのです。
歴史に「もしも・・」と言う事が有ったならばの話しですが、もし長岡藩の奇襲が1日早ければ、その後の歴史が少し変わったかもしれないと言われており、戦の勝敗は一瞬の時の差が決するというものでしょうか。
長岡藩は緊急、朝日山から主力を戻しましたが、時すでに遅く、ついに落城しちまいました。
しかし長岡城攻防戦は、これで終わりじゃありまへんでぇ、お客さん。
まだ帰ったらアカンよぉ、これからがクライマックスですがなぁ。
お願い、帰らないでぇぇぇぇ・・・
長岡藩の家老・河井継之助は再び城を奪い返えそうと、絶対に人が通れぬと言われていた「八丁堀」と言われる湿地帯を闇の中を進軍して、長岡城へ暁の奇襲を仕掛け、官軍を追い散らして奪い返したそうです。
過去にあった日本歴史上の戦では、一度落城した城を奪い返した事例は余り無いそうです。
その時、官軍は一時総崩れになり信濃川に追いつめられて、信濃川で溺れる者やら、何やらが一杯いたそうです。
しかし数日後に再び官軍に攻められちまい、長岡城は二度目の落城をしました。
その時に長岡城は壊滅的に破壊されちまい、一説によると城の本丸跡地には新政府のイヤガラセで長岡駅が作られたと言われ、現在は当時の城跡を偲ぶ遺構は全く残っていません。
戊辰戦争では最後まで徹底抗戦した会津若松城でさえも砲弾跡生々しく城が残ったのに、戊辰戦争で城跡が残されなかったというのも珍しいそうです。
その場所が駅を作るのに丁度良かったのかもしれませんが、城を奪い返された時に信濃川で溺れちまった新政府軍の遺恨という説も何となく納得できます。
ちなみに長岡藩は官軍に対し「局外中立」を申し立てましたが、その時の官軍のエライ人が、まだ若造だったので広い目で見る事が出来ず聞き入れ無かったそうです。
「非武装中立」と言うのならば、お花畑の自称平和団体が唱える題目ですが、「局外中立」というのは、たぶん永世中立を唱えるスイス国のような「武装中立」の主張のように思う。
「越路橋」を渡り、信越本線の線路下を潜って、再び土手沿いの道をテクテク・・・余り車が通らず、ノドカですねえ。
しかし土手沿いのタンボ風景が終わり、工場が立ち並ぶ付近からトラック等の交通量が多くなりました。
車はσ(*_*)を見つけて避けてくれますが、気弱な性格なもんだから、どうも運転する人に対して気の毒であり、また煩わしくもあり・・土手沿いに有る階段で一休みしました。
そこで地図を眺め、このまま土手沿いを歩いても車の量が多く、また景色もあんまり変わらず面白くないようです。
ここから長岡市内に入ろうか・・・しかし、市内に入ったら、この笠・杖姿の異様な形態を見て、人々は逃げまどうか、指さして笑うかもしれん・・と、つらつら考えましたが市内を歩く事にしました。
自販機が有るけれど、今甘い物を飲むと次の越後33観音霊場・札所寺で尺八を吹く時に唾が出るので、ジイッ~とガマンの子となり、長岡市へ向かってテクテク・・・。
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