H21.8.20 巡礼 H22.12.4 UP
旧道を歩いてると「北国街道旅籠跡」の杭が立っており、杭の有る家が昔は旅籠だったんじゃろか?、それともその付近一帯に旅籠がある宿場街だったのか?
「観音寺久左右衛門屋敷跡」ちゅうのも有りましたが、その「跡」と言うのが奥まった家なのか、それとも石垣の上に有るビニールハウスのような場所だったのか?・・もおちっと、そこら辺の説明が有ったら、初心者の旅人にはウレシイんだが・・
調べてみると、「観音寺久左右衛門」と言う人は、代々この付近の博徒をやっており、出雲崎代官所の手先をやってたそうな。
おぉぉ!!・・・なんか、だんだん水戸黄門の話に出て来るような筋書きでんなぁ。
この久左右衛門さんが幕末の頃、会津藩とつるんで子分や農民を率いて、新政府軍とケンカしましたが負けて家を焼かれちゃったそうです。
久左右衛門さんは自首をして生きながらえる事はできましたが、不遇な一生を送ったそうです。
少し行った「弥彦山スカイライン」と交差した所に「野積山弘智法印参道入口 是ヨリ先七丁」と彫った大きな石柱が立っており、「野積」集落の「西生寺」に日本最古の即身仏が有るというから、そこの参道入口なのかもしれません。
そこからスカイラインの方を見ると、金色にサンゼンと輝く観音さんが立っており、それが目指す越後33観音霊場の23番札所「観音寺」だろおなぁと思って行くと、やはりそおだった。
金ピカの観音さんの所に「台座から心癒される音色が常に流されているので、耳を当てて聴いてください」と書いてあります。
ほほおぉぉぉ・・・どれどれ・・と思い、目をつむって台座に耳を当てました。
すると・・おぉぉぉ!!・・・なんと表現して良いのかわからん、キレイな天女さんの集団が、空からドバッと惜しげもなく花吹雪を捲き散らかしながら舞い降りて来て、何とも言えん、思わずアリガタクて涙と鼻水が、こぼれ落ちるような音色が・・
と、期待してたんですが、トシのため少し難聴になっており、それと共にやっぱり信心が足りんためか・・なぁ~んにも聞こえません・・すんまへん、期待させて・・・。
どなたか聴かれた人が居ましたら、どんな音色が聞こえたのか、この不信心モンに教えてやってください。
観音寺の建物は新しく、ついでにそこらも整備したためか境内には樹木が無く、心が安らぐ・・・というより、言っちゃぁ悪いが殺風景な気がする。
どおいうつもりで金ピカの観音さんを作ったのかわからんが、自然の樹木を残しておいた方が良かったのになぁ。
観音寺の堂内には入れたのかもしれまへんが、新しい堂と金ピカ観音さんと殺風景な境内を見ると、なぜか堂内入りたいという気にならず、そのため堂内に入れるかをも確認せずに、賽銭箱の前で参拝しました。
境内の隣にチッコイ「金比羅神社」が奉ってあり、尺八参拝が終わった後、本堂の横に座って、モクをふかしながら金比羅神社を眺めました。
失礼ながらこっちの方が、金ピカの観音さんを眺めるよりも、ずうっ~と心が安らぎます。
観音寺を出発して旧道を弥彦に向かって歩くと、頭上付近に結界を示す注連縄が張ってありました。
「弥彦神領境界」と観光マップに載っており、もっと太い注連縄かと思ってましたが、細い縄なので、注意しないと見逃してしまうでしょう。
弥彦の町並みに入ると、通りの向こうに弥彦神社の鳥居が見えます。
弥彦町内の道端に「聖人清水」の看板が有り、その細い路地へ入ると、すぐ民家の壁に、何かわからん古文書が風雨に晒されたように飾ってある・・といって良いのか・・貼り付けてあると形容した方が良いのか・・
何の古文書かわかりまへんが、「阿弥陀仏」と最後の方に書いてあるから親鸞さん関係の文書と思うが、飾るのでならば、もおチットそれなりの設備にして飾っり、ついでに何と書いてあるのか説明書きが有れば、もっと親切だと思う。
その民家のすぐ裏に「親鸞聖人清水」の石柱があり、これは側に説明書きが有り、読んで見ると、どうやら古文書が飾ってあった家に親鸞さんが泊まったそうです。
その家の老婆が近くの川に水汲みに行くのを見て、親鸞さんが杖でぶっ叩いて清水を湧き出させたらしい。
杖で清水を出すのは、弘法大師さんと同じで、エライ人達は皆杖で清水を出すんですねぇ、願わくばσ(*_*)の杖にも、そんな能力が欲しい。
清水を見ると枯れかけているのか、あんまり水量が無く、もっとコンコンと湧き出ているならば飲んでみたのだが、今一つ飲む気がしなかった。
以下、広告です。