HOME > 遍路・巡礼 > 「越後33観音霊場」地図と目次 > 115 落人伝説

 西遊寺付近・越前浜、「越後33観音霊場」只一人・紀行文  H21.11.25 巡礼    H22.12.26 UP


越前浜の朝倉氏・落人伝説(西遊寺)/越後33観音霊場・只一人

「稲島」集落より

「稲島」集落、「越後33観音霊場」只一人・紀行文   鬼瓦・「稲島」集落、「越後33観音霊場」只一人・紀行文   鬼瓦・「稲島」集落、「越後33観音霊場」只一人・紀行文

 しばらく中断していた越後33観音霊場巡りを久々に再開し、前回は夏の暑い時期でしたが、今回は冬が近づく秋の終り頃。 「稲島」付近、「越後33観音霊場」只一人・紀行文

 前回まで歩き終わった「角田山登山口 稲島コース」前より出発し、歩き始めると家の前に立っていたオババが珍しそうに、σ(*_*)の歩いてるのを眺めており、σ(*_*)もヒマだけれど、オババもヒマなんでしょうなぁ。

 T字路の正面に古風な造りの大きな家があり、見上げた屋根の鬼瓦が、これまたえらく大きい。

 写真を拡大して見ると、龍が2匹して守ってるよおですなあ・・針金かと思ったら、ちゃんとヒゲまであります。「稲島」付近、「越後33観音霊場」只一人・紀行文

 ふと周りを見ると離れた家にも大きい鬼瓦があり、こっちの方は亀が波間から現れるのを表現しとるよおです。

 「稲島」付近の家では、鬼瓦の大きさとか形等を競い合っているのでしょうか?

 いずれにしても、このような何かの形を造った大きい鬼瓦を見たのは初めてで、σ(*_*)のようなビンボー人にはマネが出来ないと思う。

 この付近は「北国街道」の「稲島宿」だったらしく、ホントならば新潟へ向かって行くには、この先も北国街道を歩いた方が歴史的な何かが有るのかもしれません。角田浜へ、「越後33観音霊場」只一人・紀行文

 しかし新潟方面へは車で行った事が有るので、だいたいこの先の様子がわかっており、町の中を歩くような感じで、あんまり面白そうではない。

 そこで「稲島」より北国街道を外れて、ほとんど観光案内やネットでも紹介される事が無い、普通の旅行者なら頼まれても通らないと思われる、角田浜より越前浜・四ツ郷屋の集落を経て新潟へ向かう事にしました。

 地図を見た限り、そんなに面白そうな風景ではなく、畑が広がってるだけだろなぁ・・と思いましたが、ありふれた町の建物を見ながら車に気遣うよりは良いと思いましてなぁ。角田浜へ、「越後33観音霊場」只一人・紀行文

 「稲島」集落の外れより山沿いの道へ行くと、いきなり舗装道路が農道のような道になり、おぉぉ・・ここを通って良かった!!・・やっぱし昔ながらの道を歩かないと面白くないわなぁ・・と、期待に胸をふくらませて喜んで歩いたら道が切れてます。

 あらら・・戻らにゃアカンかと思ってたら、タンボの中を真っ直ぐな道が出来ており、きっと耕地整理で造ったんじゃろねぇ。

 その道もすぐに舗装道路になっており、更に国道並の2車線歩道付きの道になりましたが、歩いていても、たまに車が通るだけ・・・・

「越前浜」の西遊寺/朝倉氏・落人伝説

 1時間ほど歩くと「角田山登山口 湯の腰コース」が有りました。

 「角田」から「越前浜」へは国道204号線より外れた旧道と思われる道へ行き、失礼ながら、あんまり大した物が無いだろなあぁ・・・と思って歩いたら、やっぱり大した物が無かった・・すまん。 角田山・湯の腰コース登山口、「越後33観音霊場」只一人・紀行文

 「越前浜」集落入口付近に大きい寺の屋根が見え、ちっとは大した物かもしれんと思い、寺へ行ってみました。

 道路入口に「西遊寺」と石柱が有り、けっこう大きい寺で境内も広かったのですが、冬支度の雪囲いがしてあり、寺全体の姿形がわからず面白い風景でもない。

 雪囲いがしてなかったら、西遊寺の縁側で一休みしようかと思ったのですが、休む所も無さそうなので参拝もせず、入り口でサラッと「西遊寺」全体を一眺めして寺を出ました。

 それでも寺を出る時の習慣として、いつものように礼儀としての杖を胸に立て掛け、合掌一礼して出ると、道路に停まっていた自動車の中のオバチャンが、ニコニコ笑いながら会釈してくれます。 越前浜・旧道へ、「越後33観音霊場」只一人・紀行文

 きっとσ(*_*)が門前を去る時の作法・合掌するのを最初から見ていたのでしょう。

 やっぱし、こおいうモンは他人が見ていないからといって手を抜くモンではなく、いつだれが見ているかわかりまへんねぇ。

 先程の「西遊寺」石柱の付近に、ちょうど座るのに良い石が有ったので、そこで荷物を降ろして一休みし、歩き初めて1時間ほどたってました。

朝倉氏の落人伝説

 ところで事前調査の時は、わからなかったのですが、家へ帰ってからこの越前浜「西遊寺」を検索して調べてみると、「牧タリアンニュース第21号」というのに、ドエライ隠れた歴史・伝説が記載されていました。

 それによると室町時代に越前・朝倉氏が、一乗谷で織田氏に滅ぼされた時、「もはやこれまで・・」とばかり、家臣の手により朝倉氏・後継者「愛王丸」という子供がジタバタするのを、わざわざ名乗りを上げて抱きかかえて炎上する火中に投げ入れたそうな。
越前浜・旧道、「越後33観音霊場」只一人・紀行文
 オトロシイですねぇ・・ムゴイですねぇ・・・カワイソーですねぇ・・ナモナモナモ・・・。

 でも実は、このジタバタしていたのは、敵を欺くための等身大のカラクリ人形で、、わざわざ名乗りをあげて愛王丸が死んだように見せかけて、追っ手が来ないようにするためだったらしい。

 すごいですねぇ・・頭いいですねぇ。

 追っ手から逃れた愛王丸と家臣一同は、朝倉家が繁栄していた折りに習い覚えていた尺八を共に吹きながら諸国霊場を巡る遍路・巡礼に身をやつして、人知れず落ちて行き・・・

 生活のためにある時は夜店でタコヤキを売ったり、郵便配達のアルバイトをしたり・・という話しにしちまったら、いかにもσ(*_*)が作ったウソ話しだというのがバレバレですわなぁ。

 実際は、越前・三里浜という所より、愛王丸と家臣28人が小舟に乗って海へ密かに脱出・・・

 対馬海流に乗り・・流れ流れてさすらう旅は・・・はるかに望む能登、佐渡・・
 旅の終わりに見つけた角田岬・・・岬の山に上がりて、しばし隠れ住まい。

 やがて山を下り、探し得た土地に寺を建て、愛王丸が得度して初代住職となったのが、この越前浜「西遊寺」だそうです。

「越前浜」集落、「越後33観音霊場」只一人・紀行文 「この地こそ我らの里・越前の浜だ」という意味で「越前浜」という地名になったらしいが、明治以前まではその地名を使用しなかったらしく、そおですわなぁ・・落人ならば、その出目がわかるような事は徹底的に隠し通すでしょうねぇ。

 詳しくは、「牧タリアンニュース21号」を読んでください。

 そんな歴史も知らず「越前浜」集落を通り抜けましたが、集落内にコンビニの1件でも有るかと思っていたが全然無し。

 ホンマに民家しか無い集落のよおで、集落内の道も案内看板が有るワケでもなく、おおよその見当をつけて歩くと、今までの歩き慣れた経験から方向感覚と地図の読解力が向上したのか、一応予定通りの道に出ました。
 


  北国街道、「越後33観音霊場・只一人」紀行文←前頁「北国街道」へ    次頁「畑」へ→畑、「越後33観音霊場・只一人」紀行文


 恥ずかしながら「YouTube」に尺八独奏「手向」を載せており、聞いて頂ければ泣いて喜びます
当「遍照の響き」ホームページに掲載されている写真がpixtaで販売されています。



以下、広告です。