HOME > 遍路・巡礼 > 四国遍路第一章「目次」> 5 ほんとの仏教?
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春のうららかな日、県道21号線の「南馬喰草」という珍しい地名の所から、建治寺へ行くため車道をテクテク歩くと、やがて車道を離れて山に入るように標識が付いてます。
それほどきつい道ではなく、大山寺の時と違ってだれか歩いとるようで、時々遍路札がぶら下がってます。
寺は小高い場所で入口の見晴らしの良い駐車場に、大きな瀬戸物のタヌキが傘をかぶり「通い通帳」を持って立っており、ここはタヌキと縁がある所やろか?。
建治寺は人影もなくヒッソリしており、参拝をすませて境内のベンチで休んでると、寺の奥さんがお茶とお菓子を持ってきてくれました・・すんまへんねぇ。
時間に余裕があったので、そのままベンチで尺八を吹いてると、外から帰って来られた住職さんもベンチの横に座って聞いてます。
住職に「六波羅蜜の「禅定」のつもりで吹いているが、仏教に詳しいわけでなく聞きかじりの知識なので、今一つこれで良いのか自信がなく、吹いてるといろんな雑念が浮かぶ・・・」等々と思ってる事を尋ねると、「そのまま吹き続けていれば良い・・」というような意味を言ってくれました。
実は今でも仏教を信じるとか、信仰心とかで遍路をしてまへん。
尺八を吹き始める以前は、一応形式だけでも人並みにしねぇと叱られるかもしれんからと、蝋燭と線香は越後屋にやらせて、自分は手抜きしてそれを略し、納札と賽銭を入れて般若心経を唱えるというように寺を巡っておりました。
法輪寺の境内で、ジサマに勧められて始めた尺八は、それに付け加える「オマケ」という感じで、ほんまに形だけです。
それが、仏教にチラッと目を向けるようになり、仏教の本も時々眺めるようになったキッカケは、歩き一巡の時に某寺(このページに出ている寺ではありません)で、いつものように参拝し堂前で尺八を吹き終わりました。
それを待っていたかのように住職が声をかけて来て、境内の小屋に招き入れ「なぜ本尊の前で、尺八を吹くのか?」と聞きます。
なぜ・・と言われても・・困っちまうが・・・
そんな、たいした理由もあるわけでなく・・
信心もなく・・おまけに、金もねぇ・・・
皆、そんなような事をしているしぃ・・
尺八吹きながら遍路して巡ると、上手くなると言われたもんで・・・そおかなあぁ~・・と思いながら・・ついつい・・・スンマヘン・・・と答えました。
住職は「それではダメだ」とキッパリ言い切ります。
実は私が、安物のヨレヨレで小汚い色あせた作務衣を着て尺八を吹いていたので、その姿・カッコウ・している事等を見て、住職は「こいつは永年遍路しながら、修行しとる行者かもしれん」と勘違いして問答をしようと試みたらしいのです。
それが話をしてみれば当てが外れて、仏教については、どおしょうもねえドシロウトとわかったと、この後で教えてくれました。
これじゃあ、アカン・・・と思われ、それから仏教の専門用語を一杯使い、ほんとの仏教は、こおなんだ・・・・・と、説明してくれます。
地面に絵を描き、噛みつくように一生懸命説明してくれましたが、なんせ仏教の基礎知識が欠落しとる不信心な人間なもんで、よお~わかりまへん。
なんか高等な微積分の応用問題を、幼稚園の子供が口空けて聞いとる感じで、一割ほどしか言ってる意味がわかりまへん。
ただ、寺と言えば当然と思われる葬儀・法要の事は一切口にせず、むしろ既成の葬式仏教のあり方を徹底的に否定し非難しました。
なんせ、ほれ・・「寺」ちゅうもんは、葬式・法要しかやらん所で、本尊さんにしても訳がわからんでも、とにかくアリガタク拝んでおれば良いんじゃ・・と、世間一般では考えられて通用しとります。
これを真正面から否定し「本当の仏教は、そんなものでない」と、事もあろうに寺の坊さん自から衝撃的な事を言われたもんですから、そりゃあ~ビックリこいて、チッとやソッとで、そんな事を信じられまへんわなぁ。
おいおい・・そいじゃあ、今まで世間一般で常識と思われていた、寺の坊さん達がマジメな顔してやっていた事は、いったい何だったんじゃ・・と・・思っちゃい、あれはウソか?。
曰く、墓・死者・仏壇に向かって経を唱えても何もならない。
曰く、経は自分の心に向かって唱えるものであり、この事は坊主なら宗派を問わず必ず知っているはずで、言わないのは自分たちが喰えなくなるから言わないだけだ。
曰く、現在の88ヶ所の寺には、もう霊的なものは居ない。昔はその場に居たかもしれないが、今は人々の欲望の願い、また寺の商売意識等により霊は逃げ去り、今、霊が居るとすれば自然の中にしかいない。
曰く、本尊や仏像に祈り願ってもダメである。
曰く、神仏は自分の心に在り、自分の心が汚れているから、その事がわからないだけである困難な事象があっても決して目をそらして逃げず、あまんじてそれを受け入れ、自分の力で解決しなければならない。
曰く、神仏は、自分の背後に居り、決して自分の目の前に現れて助けてくれない。
そして「だれに聞いても良いから、今言った事が正しいか確認してみろ」と言われたもんだから、遍路しながらこれはと思う寺の人や、永年歩き続けてる遍路達に、この事を尋ね聞いてみました。
多くの人に尋ね聞いた結果は、この「庵の坊さん(以後、この呼び方をします)」の言ってる通りでした。
ただ、少し意見がそれぞれ異なった所が二ヶ所有り、
「本尊に祈ってもムダ」→「そうとも言い切れない」
「88ヶ所には、もう霊は居ない」→「全部が脱けておらず、まだ残っている所も少しある」
という人も居ました。
話は少し違いますが、尋ね聞いたうちの一人の「老遍路」は、「仏像にも魂の入ってるのと、入ってないのがある。」と言うので、どのようにして見分けるのか?と尋ねると、ニヤリと笑い「それは、あんたの心眼で探せ」と言われました。
ううむぅぅぅ・・・・・ワシの心眼・・濁りきっとるからなぁ・・。
「庵の坊さん」は、別れ際に教えてくれました。
これからも尺八を吹きながら遍路するなら、ここは・・と思う場所で吹いて、響きの良い場所を探せ。
それはどこかの寺かもしれないし、歩いてる途中の自然の中かもしれず、そこには今は逃げ去った霊が居るかもしれない
遍路中で心境の変化を与えるほど、大きな影響を受ける事を教えてくれたのは、この「庵の坊さん」と、まだ詳しく話に出てきませんが、先ほど書いた「老遍路」の二人だけでした。
ちなみに「庵の坊さん」へ「しかし、あなたも、葬式・法要で食べてるんじゃないですか。」と意地悪く言ったところ
檀家は持っていなく、地元の人に自分の主張を教えたが、もんのすごく反発を食らった。
それでも長い間かかって、少しづつわかってくれる人も出て来て、そおいう人が食料などを持って来てくれている。
建治寺の住職とはあえて仏教の話をせず、他の話しをした後、13番「大日寺」へ下りる道を聞いて寺を出ました。
鎖を伝って降り、今は水が少なくなった滝行場を通り、途中の民家で犬に吠えられ「大日寺」へ着きました。
大日寺は遍路で賑わっていますが、目前の「一宮神社」は閑散としており、昔は遍路ならばこのお宮にも参拝してたのに・・・・
その閑散とした「一宮神社」の神前で尺八を吹き終わると、神社の人が縁起のパンフレットをくれました。
地蔵峠の遍路道は最近復元され、小川に「鹿おどし」や小さい水車が作ってあり、この遊び心が気にいったなぁ。
恥ずかしながら「YouTube」に尺八曲「手向」を載せており、聞いて頂ければ泣いて喜びます。
当「遍照の響き」ホームページに掲載されている写真がで販売されています。
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