HOME > 遍路・巡礼 > 四国遍路第三章「目次」 > 歩き一巡・12 庵の坊さん
H20.1.26 UP
庵の坊さん
あるお堂にて・・
暑い盛りを村を通り、川が流れていれば越後屋と一緒に、まず魚が泳いでるかを確認します。
魚が泳いでおれば、
で「おぉぉ・・居た・・居た。(^^;」
越「キャッ、キャッ・・(喜んでる声)(^^;」
と喜び、眺めつつ歩いてます。
あっ・・・魚に向かって石投げつけようとは、コリッポチも思いません。
そんなふうにして歩きながら、ある日・ある所のある峠に有る、お堂へ行きました。
けっこう広い敷地で人も住んでおり、そこのベンチで休んでると、出てきた坊さんと話をする事ができました。
それが・・・その話の内容といったら・・もう・・・、
徹底的に現状の葬式仏教を非難する事・・・・(^^;
ワシのような不信心者は、そうじゃ、そうじゃ・・と、いたく同感して涙を流し・・
おいおい、そんな事まで言って良いんかねぇ・・と心配しながら笑うほど・・(^^;
現状の仏教を信じてる人や、お寺さんが聞いたら、ヒックリ返って腰抜かすような事を、平気で堂々と言いました。
そして仏教の本質を専門用語を一杯使い、ギョロ目を光らせ、そばの地面のコンクリートに石で絵や字を書いて、声を大にして一生懸命説明にしてくれましたが・・・・・
ワシには、よ〜わかりません・・・・
なんせ不信心者で、勉強しとらんもんで・・・・・・(TT
それでも1割ほど、何を言わんとしてるのか、わかりました。
2時間ほど話を聞いてる途中、村のバサマが来て側のベンチに座り、黙って話を聞いてます。
坊さんは、このバサマも自分の言ってる事が、最初はよ〜わからんかったが、今ではわかっていると言います。
そして、このバサマが時々ダイコンやら何かを持って来てくれ、坊さんはお布施を求めず、檀家も持たないとの事でした。
お堂を出てから本日の予定地までの道々、坊さんの言った内容の事を越後屋と話しながら3kmの道のりを歩くと、いつもは長く感じる時間もアッと言う間に過ぎました。
夕食時にも越後屋と、さっきの坊さんの難しい話の不明な所を、お互いにどう言ってたかを、わからんなりに確認しあいました。
そして・・たぶん難し過ぎて凡人のワシらには、よ〜わからん事を言うかもしれんが、明日もボォッ〜と遍路して歩くより、もう一度あの庵へ行って坊さんの話を聞いた方が、まだ何かしら得るものがあるんでは・・・と言ってみたら、越後屋も同調しました。
行くにしても、いくらなんでも手ぶらじゃなぁ・・・
やっぱし、どおしても何かお礼がしたいし・・・
坊さんも、カスミ食って生きとるワケじゃなし・・
かと言って現金を置いてきたら、あの坊さん・・ヒョットしたら怒るかもしりんしなぁ・・・
近くのスーパーで適当に見繕って・・とウロウロ探し、時あたかもお中元シーズン。
しかし、箱ばっかしリッパでも中身が大したこと無いと思い、棚に並んでいた素麺を二袋買いました。
話をしていた時、昼飯食っていないと言ってたんで・・・・
瓶詰めの「ソーメンの汁」も一緒に贈ったら・・と思いましたが、越後屋は味付けは、それぞれの好みがあるからと言って聞き入れてくれません。(;;
次の日、再びあの庵へ行き、午前中一杯、坊さんの話を聞きました。
あのスーパーで買った素麺持って・・・・
しかも・・・・スーパーの袋に入れたまんまを差し出し・・・。
レシートと値札は、外しておいたけど・・・・
やっぱし難しい専門用語が、ボンボン出ました。(;;
よ〜、わかりません。(TT
そいで「難し過ぎて、よ〜わからん。」と正直に言いましたが、これでわかるようだったら坊さんがワシらの弟子になると笑っていました。
帰る時には、このままお遍路を続けようか・・・・。
たとえ続けても、これからの寺での、お参りの仕方等を、どおしょうか・・・と、正直言って、迷いが出ました。
不信心者のワシが迷うということは、少しは信心が出たのでしょうか・・・・・
そして、このような坊さんが、まだこの現代社会に居た事に、もんのすごい強烈なショクがありました。
あえて、このお堂・庵がどこにあるかを書きません。
坊さんの意向により、この事をパソコン通信で知り、ワァッーと、たくさんの人が来て欲しくないそうです。
説教は、対話しながらするものであるので2・3人が限度であり、本を出版したり、また何百人もの人を相手にして一度に説教できるものでは無い。
また、この地を訪れて、このように話をする事が出来たのは「縁」であるとの言によります。
00/07/18記載
編集後記(庵の坊さん)
ここでは「庵のベンチで休んでいた」事にしていますが、これを掲載していた某掲示板(FS20)では尺八を吹きながら遍路していた事を伏せていたので、ホントは本堂に向かって尺八を吹いてたのです。
(当時、掲示板を見ていた人、ウソを書いてゴメンネ。)
それを見ていた坊さんが、尺八を吹き終わった時に「何故、本堂に向かって尺八を吹くのだ?」と聞きます。
普通だったら「おぉぉ・・エライ・エライ・・、仏さんも喜んでらっしゃるじゃろう。アンサンも信心が有りますなぁ。」と、ヨイショして誉めてくれると思うんです。
その時にした話の内容は「第一章」「徳島」「5 ほんとの仏教?」に記載してあります。
細かい内容は、もう年月も経ているので大部忘れましたが、その時に何とか理解したのは「世間一般でやっとる形式的な参拝では何もならん」「自分の心の中に仏が居る」というような内容でした。
それまでは他人の参拝をマネしてるだけだったので、「それじゃアカン」と言われっちまい、今後このまま遍路を続けても何もならんのなら、ここで止めるか・・それとも続けるかと迷いましてなぁ。
しかし、せっかくここまで歩いてきたので、何も得られんかもしれんが、とにかく歩きの一巡だけはする事にしました。
また、本堂・大師堂で唱える般若心経も、今後これを唱えるかどうかも迷いましてなぁ。
越後屋も悩んでたようですが「わからんけれど、今まで通りにする」と言って、以前同様のやり方で参拝しています。
σ(*_*)は、これを機会に般若心経を唱える事を止めて、直ぐに尺八だけを吹くようにしました。
何事も、まず「捨てる」ちゅう事から始めまへんとなぁ・・・(^O^)
しかし、これが形式的な事を捨てるというキッカケになり、今思うと結果的には良かったと思う。
「庵の坊さん」は、尺八を吹きながら遍路する事を、あんまり勧めまへんでした。
アカンと言う意味では無く、それをやりながら巡っていても仏教の本質はわからんだろうというニュアンスです。
「庵の坊さん」としては、遍路している者だから仏教に興味が有る人物じゃ・・と思い、少しここに留まらせて仏教の事を教えたかったようですが、σ(*_*)は仏教の事よりも尺八を見極めたい気持ちの方が強かったので、そこが「庵の坊さん」と目指す方向が違っていたんでしょうなぁ。
「尺八の音は、その場の空気を清浄にすると言われている」と言っても、鼻先で笑われ、今ならば、そんな表面的・空想的な事を言ってもアカンと思う。
もし、それに類する事を言うならば「尺八の音は、心に潜む仏が聞く」と言った方が、カッコウがええかもしれん。(^O^)ナハハハ・・・
「第一章」にも書きましたが、別れ際に「庵の坊さん」は、それでも尺八を続けると言うσ(*_*)に「もし続けるならば、ここぞと思う所で吹いて響きの良い場所を探せ、何かがわかるかもしれん。」と教えてくれました。
この言葉は具体的な場所とか、練習方法を教えてくれる言葉ではありまへん。
しかし、その場所を探しながら吹き続けて、感じたり思ったりした事が修行だったならば、もんのすごく良い修行をしたと思い「庵の坊さん」がσ(*_*)に教え伝えようとした事が少しはわかったような気がします。
もし、この言葉を聞かず知らず、また実践もせずに巡っていたならば、たとえ何十回・何百回巡ろうとも、なあぁ〜んにも、わからんかったと思います。
そして「へぇ〜・・あの程度で・・」「自己満足・・(^O^)ケケケ・・」と笑われるかもしれんが、自分で言うのもアレですが、遍路する前よりも、もんのすごく上達したように思う。
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