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   H20.2.16 UP


自然

3つのコース

 足摺岬をかわして西側の付け根である土佐清水市から、宿毛市の39番延光寺へ行くには大きく分けて3つのコースがあります。

 1 逆打ち(来た時と同じ道)して、「下ノ加江」から三原村を通る山越え。
 2 国道321号線を宿毛市に向かい、途中から林道?を通って山越えして三原村に出る。
 3 国道321号線を途中「大月」経由で宿毛市に向かって歩く。

 このうち昔からの遍路コースは、1と3だったようです。

 距離的には1・2は、あまり変わらず、3コースは2倍ほどの道のりがあります。

 1の来た道を逆戻りするのも面白くないし・・かと言って3の道のりは長いし・・・・当然2のコースに落ち着くのが人情です。

 で、2のコースを車で通って、バイクを置きに宿泊予定地の三原村まで行ってみました。

 本にも「空と山と自分の孤高な空間・・」と書いてあり、おぉぉ・・さぞや、心が洗われる景色で、反省・努力の固まりのような人間に生まれ代われるだろうと思いました。

 ところが親分、確かに空と山と自分の空間・・・ですが・・・・

 道は車が通りやすいように舗装してあり、道のわきはススキみたいのが生い茂っていて、あんまり面白くないちゅうか・・反省・努力する気がしない道なんですねぇ・・・・

 道を造成中という箇所もあり、そこらの国道を歩いてるのと同じ感じで、車が走り回っていないだけ少しは自然というような・・・・。

 あっ・・申し遅れました・・・・。
 お遍路していて、ワシ・・だいぶ反省・努力の修行になったように思います。

 文のあちこちに、マジメになった、ワシの姿が見え隠れすると思います。
 はっ?・・それほど見えませんか・・・すんません・・・。

紫の輪袈裟

 話題を戻して・・・
 越後屋と、こりゃあアカンと相談して1コースの逆打ちすることにしました。

 次の日、ホントは土佐清水市で終えたのだから、そこから逆打ちコースの道を歩かにゃアカンのですが、同じ道を歩くのは面白くないから・・・と、5kmほどズルして、前回書いた大岐海岸付近から歩き始めました。

 遍路道を歩いて国道へ出ると、一人の遍路さんが国道を向こうへ歩いてます。

 遍路道を見落としたのかと思い、声を掛けると見事に日焼けしたオバチャンで、このオバチャンとケンカしたら・・ワシがたぶん負けるだろうな・・という体格の人でした。

 聞いてみると
「今まで遍路道を歩いていたが、ヘビを何度も見てコワイから遍路道を通らない」と言います。

 別れてから、前日、足摺へ向かって歩いた時は、川と海の水が、あんまりにもキレイでバスクリンをまいたような透き通った水の色に感激し・・

 それに見とれっちまいながら歩いので、遍路道を見落としてしもうた所へ来ると、二人のお遍路が遍路マークの所で地図を見ていました。

 声を掛けて挨拶すると、母娘の二人連れで、娘さんの年頃は高校くらいで疲れた顔で杖によりかかって立っております。

 お母さんの方は遍路してるにしては、珍しく日焼けしてない白い顔に汗を一杯かいており、紫色の輪袈裟が正規の白装束の中に映えて見えます。

 ワシらのような物見遊山的な遍路と、なんか違うような気がするんですよね・・・・
 見るからに痛々しかったなぁ・・・

 今日は足摺岬まで歩くと言うので、途中のトイレの有る場所、大岐海岸の川は、先日クツを脱がずに渡れたので、たぶん今日も大丈夫だろう等と教えて別れました。

 あのまま、順調に歩いていれば、今頃は愛媛県に入ってるでしょう。

 このように、いろんなお遍路さんと会えるので逆打ちも悪くないなぁ・・・と思いました。

 で・・1コースを通ったのは正解でした。

 2コースよりも、道に木が茂って杉木立なども有り涼しく、また道も急坂ではなく情緒のある道でした。

                        00/08/18記載


 

編集後記(三原村の遍路道)

 文の最後2行で「下の加江」から三原村への道を「情緒のある道でした」とサラッと書き終えてますが、実はこの道筋で始めて尺八を吹きながら歩いてみました。

 車が1台通れる程度の林道のような道で、行き交う車も人も無く、川に沿った深い山の杉木立が続いてます。

 「庵の坊さん」の話しを聞いた後、ズウッ〜とそれらしい場所を捜していたんですが、どうしても人気が有ったりして、ここぞと思う場所がありませんでした。

 「それは自然の中かもしれない・・」という言葉から、あるいはこおいう所で吹くのも、何かを得られるのかもしれんなぁ・・と思いましてなぁ。

 どこかに座って吹いても良かったんだけれど、それじゃあぁ予定地に着くのが遅くなるので、少しでも歩きながら吹いてみようと思い、σ(*_*)の杖を越後屋に持たせて先に行かせました。

 歩きながら吹くちゅうのは、ホンマにゆったり・・・ゆったりと歩かないと吹けないもんですなぁ。
 とても普通に歩くような調子では、息が切れて吹けまへん。

 その時に何を思ったのか、もう忘れてしまいましたが、今も心に残るお気に入りな場所の一つです。

 その頃は、何でもかんでも、とにかく人の居ない場所や自然の中を探して吹いており、そのうち何かがわかるじゃろう・・ヒョッとしたら神霊もカワイソーに思ってチラッと顔を出して、手ぐらいは振ってくれるかもしれんという風に思っていたんです。

 そおやって探し吹き続けてわかった事が
「自然に吹きたくなるような場所を探せ」という意味だった事がわかりました。

 あんまり「庵の坊さん」の言葉と違いが無いように思うかもしれまへんが、この「自然に吹きたくなる・・」というのは、思っていても、なかなかホンマにそう思えないもんです。

 法輪寺で尺八を勧めてくれたジサマも
「長く巡っていると、ある時に、ふとした事で無性に自然に般若心経を唱えたくなり、唱えながら涙が出て来る事が有る」と言ってました。

 それを聞いた時はσ(*_*)みたい不信心モンには、まず絶対にそんな事は有り得ない、縁遠い話しじゃと思ってましたが、今はそおいう事が有るかもしれんと思う。

 要請が有ったからする、決め事だからする・・のではなく、「自然に・・したくなる」というのは宗教的な信心の話を抜きにしてでも、音楽の原典のような気がします。

 たぶん「庵の坊さん」も言葉を換えれば、そおいう「気付き」をさせて、さらなる何かを教え伝えたかったのではないかなぁ・・・

 多くの神社仏閣や自然の中で尺八を吹いて来ましたが、どうしてもここで自然に尺八を吹きたいと思った箇所が、今まで巡りながら何箇所有ったじゃろおか。

 無かったとは言わないが、あんまり多くない。


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