HOME > 遍路・巡礼 > 四国遍路第三章「目次」 > 歩き遍路一巡・20 観自在
  H20.2.23 UP


観自在菩薩

松尾峠

 高知県から愛媛県への遍路道は松尾峠越えで、宿毛市の駅近くから、いきなり急坂を上り、草が生い茂った山道を歩きます。

で・・愛媛県からは「菩提の道」と言いますが、「菩提」ちゅうのは、何の事かわかりません・・恥ずかしながら。

「キャッ。!! (>_<)」
「(ドキッ!!)何じゃ?」

「蜘蛛の巣が顔に・・・・」
「クモの巣ぐらいで、死にゃせん。(-_-;)」

「笠のクモの巣、取ってぇ・・・・・(;; 」
「取れてる・・取れてる・・・(甘えるんじゃねぇ)」
「見もしないで・・・・(TT ブツブツ・・」

 しばらくして・・・・

「キャッ。!! (*_*)」
「(再びドキッ!!)どぉした?。」

「顔に虫が当たった・・・・」
「口を開けとけば、口の中に入って面白かったのに(=_=)」

再び、しばらくして・・・・

「キャッ。!! (@_@)」
「(やっぱりドキッとして)今度は、何じゃ?」

「足下で何か動いた・・・」
「ワシはなぁ・・・お前のキャッと言うたびに、
  その叫び声の方に、ビックリこいとる・・・。 (;_;)」


 以前にも書いたかもしれませんが、だれも通らない山の遍路道を歩くのは正直言ってコワイです。

 前日、ワシらを追い越して行った若い男の遍路さんに聞いても、やっぱし山の遍路道を一人で通るのはコワイと言ってました。

 そうでしょうとも、ワシはまだ
「キャッ」と叫ぶ、頼りない越後屋でも、まだ少しは心の支えになっており、それほどでも無いですが、ワシ一人で歩けと言われれば、そりゃあ心細いもんです。

 それが修行じゃと言われれば・・それまでですが・・・。
 しかし、こおいう道を一人で歩いてれば、根性が付くじゃろおなぁ・・・。

 これを女性の一人歩きとかになると、もっとコワイでしょう。
 そんなので女性は、山の遍路道でなく、遠くても人通りの有る国道などを歩く人が多いようです。

 松尾峠を越して、やっと県道?に出ましたが日差しが強く、少し頭が痛くなりました。
 評判の熱中症かもしれません。

 しかし、もう少しで愛媛県最初の40番「観自在寺」なのでガマンして歩き、やっとこさっとこ寺に着き、弁財天堂?の裏が人も来なく日陰なので30分ほど、そこで昼寝してたら直りました。

 気持ちよく寝れたなぁ・・・涼風が吹いて・・・・。

観自在菩薩

 般若心経の一番最初に
 「観自在菩薩 行深・・・・」とありますが、「庵の坊さん」が、この「観自在菩薩」の意味を教えてくれました。

 「観」→観る
 「自在」→自分の在る事
 「菩薩」→人の事

 すなわち、「菩薩とは人の事であり、人には仏も神も宿っている。
 従って 人=仏・神であり、己の心に菩薩は宿る。

 自分の心(良い心も悪い心も)を観る事が出来る人が、行深般若・・・に続く・・・・・、」
と解釈してくれました。

                               00/08/20記載


 

編集後記(法華経)

 最近、チラッと法華経の本を読んでみました。
 はい、全然わかりまへん・・降参します。(^O^)


 印象としては、一口で言うと数々の仏さんが現れて、その功徳がどうのこうの・・で、法華経の偉大さを讃える物語・・というように受け取りました。
 でも、たぶんそれは表面的な解釈で、ホントは、もっと深い意味があるんでしょう。

 σ(*_*)としては偉大さを讃える物語よりも、「どうせよ・・」というような事が書いてあるのかと思ってたんですがねぇ。

 偉大な経だから、アリガタイんじゃ・・素直に仏の偉大さに心を打たれよ・・と言われても、根がコンジョ曲がってる者だから、「はい、そうですか」と素直に受け取れんのです。

 般若心経ならば、ある程度の意味は、わかるんだが・・

 まぁ信心が足りん人間だから、わからんのは当然だけれども、そのうち遍路しながら、出会った坊さんに「法華経は何を教えようとしているのか」と聞いてみよう。


 「庵の坊さん」なら、どんな風に教えてくれるかな?


  HOME > 遍路・巡礼 > 四国遍路第三章「目次」   前ページ    次ページ



以下、広告です。