HOME > 遍路・巡礼 > 四国遍路第三章「目次」 > 歩き遍路一巡・29 神仏の気
H20.3.29 UP
遍路道を45番岩屋寺に近づいたと思う頃、深山の静かな薄暗い古杉に囲まれた場所に入り、これこそ天狗様が宿る杉にふさわしいと思われる、苔むした大きな杉の木が目につきます。
ふと周りを見渡すと、見上げるような苔むした岩の間に綱が垂らしてあります。
修行者がそれを掴んで上がって修行するようで 「なんとか童子かんとか」という幟が建ってるので、その「なんとか童子」の修行者が修行する所なのでしょう。
おぉぉ・・すげぇなぁ・・と感激しながら、先ほどの大杉の前まで歩くと、5階建てほどの大きな岩を背にした、これまた4mほどの大きさの真っ赤な不動明王が立ってる像が見えます。
今まで巡った寺の境内にも、観音様や地蔵様・不動明王等が数多く有りましたが、正直言って拝む気持ちも無く、言っちゃあ悪いけど、見る気もなく単なる偶像としか思ってませんでした。
ワシ・・信仰心が無いもんで・・・
あっ、知ってましたか・・・すんません・・
しかし、ここに立ってる不動明王は、この雰囲気に見事にマッチしており、まさに大きな岩を背にして不動明王が現れたような現実味がありました。
以前、庵で会った坊さんと話した時に「仏壇・お寺の仏様の前でお経を唱えても何にもならない」と言われたと書きましたが、それに続く話は、そこには(仏壇・寺には)神仏は居ない。
もし、唱えるならば、神仏の霊が存在する所でなければならない。
昔はお寺の場所にも神仏の霊が存在したであろうが、現在のお寺は人々の欲望の願いが渦巻いており神仏の霊が離れている。
たとえ、どんな有名な寺であろうとも・・・・。
今、神仏の霊が存在する場所を探すのであれば、 自然の中で、ここだという「気」を感じる所である。」
という主旨ですが、説明の言葉が足りなく不完全・誤解を受ける可能性は承知してます。
今まで歩いていて、あっ、ここかもしれない・・と思う所が数カ所有りました。
そこは、坊さんの言われるように、巡った寺ではなく、自然に満ちた山道の途中でした。
そして今回来た、まさしくこの場こそ、神仏の霊が存在するならばここだ・・と思われる場所でした(不動明王の像ではなく、場所的に)。
不動明王の近くに木の門扉があり鍵がかかっています。
中を覗いてみると、先ほどの5階建てほどの岩と岩の間に長い綱が垂れており、やっぱし、その上に登って修行するようで(せり割禅定)、説明書きでは岩屋寺で鍵を借りてこなければアカンようです。
以前、何かで読んだのですが、奥さんが亡くなられて、その遺影を胸に抱きながら歩きお遍路した人が、この「せり割禅定」の場でお経を詠み終えた時に自然に涙がこぼれ出て、思わず泣きながら「○○(奥さんの名前)、今、ここまで来たぞぉ」と叫んだそうです。
はたして家の仏壇前やお寺で、そのような感情が現れるでしょうか・・
ここは、真に神仏の霊気を感じる空間だと思います。
00/10/22記載
この時に見た不動明王は、山霧に煙る薄暗い山中で、その朱の色が目立ち、おぉぉ・・スゲエなあぁぁ・・と素直に思ったんです。
後日、越後屋にその事を言うと「あの不動さんが?・・・顔がそんなに怖く無かったから思わず笑ってしまった。」と言います。
なんちゅう、不謹慎なヤツメ・・・・山中であれほど、見事にマッチした事は無かったのにぃ・・と思いましたが、残念ながらデジカメで不動明王を撮っていまへん。
写真をご覧のように、その付近の写真は薄暗い箇所のため、笠にフラッシュの光が当たり失敗しております。
また、幽玄な山の雰囲気に飲まれながらも、トットと先を急ぐ越後屋に置いてかれんように、足下に注意しながら急いで歩いていたので、不動明王の顔を、よぉ~見ていなかったんです。
二巡目に行った時、マジマジと不動明王を見てみれば、言われてみれば確かに笑うかもしれん。
でも、この場所は尺八を吹く雰囲気に一番マッチする場所で、二巡目以後は時間が許す限り、深い森に向かって尺八を吹いており、静寂な森に尺八の音は吸い込まれるようでした。
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