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尺八を携え歩いた四国遍路   H20.5.17 UP


托鉢と乞食

托鉢遍路

 仕事が終わり港の道端で一服してると・・・あっ、サボッテたのではありません。
 一生懸命に仕事をして、つかの間の休息です・・・信じられんやろうけど・・。

箸蔵寺 定置網の船が網を積んで港に帰ってきました。
 おつかれさん・・(^^;

 トンビが空を飛んでます。
 ええねぇ・・アンタは・・・ヒマそうで・・。

 バァサマが乳母車を押して道を横切って行きます。
 あぁ~あぁぁ・・・危ないなぁ・・・・

 パトカーが通って、ワシをジロジロ見て行きます。
 な~も悪い事しとらんのに・・そんなに、見つめちゃ・・・イヤ・・

 はっ!!・・・何の話しやったかな・・・そうそう・・・

 向こうから、一人の歩き遍路が来ました。
 おぉぉ・・この寒いのに、よぉ~歩いとるのぉ・・・(^^;

 近づいて来る間にサイフの中身を確かめ、小銭を接待して少し話をしました。

で 
「全部野宿ですか?」
遍路 
「はい・・・」

で 
「大変ですねぇ・・・・」
遍路 
「托鉢しとるんです・・・」

で 
「えっ!?・・・お坊さんですか?」

 そんな服装もしとらんし・・・・
 白衣も着とらんし・・・・
 杖も持っておらんし・・・・
箸蔵寺
 笠だけは、真新しいの被ってるから、遍路だとわかるけど、それが無かったら、単なる放浪の人やなぁ・・・・

遍路 
「・・・・(黙って、顔を横にふる)
    1日・・・3件か・・5件しとる(托鉢を)」

で 
「皆・・托鉢にお布施してくれますか?」

遍路 
「いや・・断る人もいる・・・・。
    玄関先で、経を詠んでも・・なかなか、人が出て来んし・・

    戸が閉まってる時は、ピンポ~ン(チャイム)を鳴らすんだけど・・
   お経をあげさせて下さいと言っても、邪険に断られたりもする・・。」


で 
「しかし、ピンポ~ン鳴らしてまで、托鉢するのは、どうかと思いますが・・・・」

遍路
 「(自分は)金持っとらんから・・・そぉでもしないと・・・・」

のような事を話して、別れました。

 遍路の本には、確かに1日3件は托鉢しろというような事が書いてあります。
 ワシ・・まだ1回もやった事ないけど・・・・。

虚無僧の托鉢

 聞きかじりですが、虚無僧の托鉢の仕方にはキマリがあります。

  1 托鉢する時間は、日の出より日の入りまで。
      (日が沈んだら托鉢してはいけない)

  2 玄関の戸が閉まっていても、絶対に自分の手で、その戸を開けて托鉢してはいけない。
      (戸が閉まっていたら、閉まっているまま、その前で托鉢する)

  3 死相を言わない。
                    etc・・・・  

 閉まってる戸を開けるのでさえも、どうかと思っとるのに、ピンポ~ンを鳴らしてまで托鉢するのは、どうかなぁ・・と、やんわり言ってみたのですが・・・アカンかったようです。

 もっとも、これはワシ個人の托鉢の仕方への思いであり、戸を開けたり、ピンボンを鳴らして托鉢するのも「有り」なのかもしれません。箸蔵寺
 よ~わからんけど・・・・

 昔と違って今の家は遮音性にすぐれており、閉めきった家の中では外の音は聞こえにくく、托鉢する人にとっては、やりにくい世の中になったと思います。

 そいでもって、昼の家の中には耳の遠いジサマ・バサマぐらいしかおらんし・・

 若い衆は働いて外に出ておるやろぉし・・・・
 おっても、信仰心は薄らいどるやろぉし・・・・

 家の犬も、一生懸命吠えるやろぉし・・・
 政治家は、留置所に入っていても給料が貰えるし・・・・

 こんな世情でも、野宿しながら托鉢だけで遍路しようという人が居るのは珍しいと思い、もう何回も巡ってると言ってました。

 具体的な回数を聞いても言いませんでしたが、その服装は長期間巡ってる様子を示してました。

                                  00/12/23記載


 

編集後記(托鉢と乞食)

 尺八をやってる人には、ドラマや映画で虚無僧が尺八を吹きながら家々を門付けする・・という姿を見ると、カッコええなぁ~・・いつかは自分もあんな姿で托鉢してみたいと一度は秘かに夢見た事が有ったと思います。
箸蔵寺
 はい、σ(*_*)も一丁前に恥ずかしながら人並みに、そおいう夢を見ました。
 腹の底から大笑いしてやってくんなせぇ。

 しかしσ(*_*)は虚無僧の流を習ったわけでなく、全くの独学・自己流なので、虚無僧姿になる事はできまへん。

 それに代わるモノとして何か無いか・・と、別に知恵熱が出るほど深ぁ~く考えたワケではありまへんが、
「一遍路として、遍路姿で尺八を吹いて「托鉢」という形」であるならば、そのスジの方達からは、お叱りは無いだろうと勝手に解釈し、四国遍路の時に寺で数回やりました。

 まぁ・・托鉢というより、ストリーミュージシャンのマネ事、度胸試し・・という方が、その時の気持ちとしては当たってるかもしれまへん。

 しかし考えるキッカケちゅうもんは、何が原因で始まるかわからんもんで、托鉢のマネ事をやってからは「托鉢」とは何じゃろ?・・という事をずいぶん考えましてなぁ。

 はい、これは知恵熱が出るほど、だいぶマジメに考えました。

 四国では「托鉢」と称して、寺あるいはスーパー付近で茶碗持って経を唱えている人達や、ただ単に座ってるだけという人達もいます。

 あの姿を見て、あぁ~修行されとるんじゃエライなぁ・・と素直に思うじゃろうか?
仙龍寺
 むしろカワイソーだなぁ・・とか、イヤじゃなぁ、見苦しいなぁ・・という気持ちの方が大きいと思う。

 そいで「カワイソー」だからと布施されたのでは、乞食と同じじゃないか・・と思いましてなぁ。

 托鉢のマネ事をした時に、物乞いに金をやるんじゃ・・という態度というか、気持ちの表れが有る人も居ます。

 托鉢しながら慣れてくると、思議な事に目をつむって尺八を吹いていても、笠にお金を入れる時の音で、今この人は、どんな気持ちでお金を入れたのか・・なぁ~んとなくわかるんですなぁ。

 托鉢=乞食なのか?・・・いや違うはずじゃ、しかし、その線引きは何じゃろ?
 同じように見えても何かが違うと思い、ずいぶんネットや本で調べました。

 調べてみても、内容がなぁ~んか奥歯にモノが引っ掛かったような、よぉ~わからん表面的な事が書いてあったり、また、そのものズバリ「托鉢=乞食」と書いてあったりするモノも有ります。

 バシ~ンと「これだ!!」と分かり易く書いてあるものは、有りまへんでした。

 
「托鉢とは布施心を起こさせる」ちゅう意味の事はチラホラ書いてありますが、寺への寄付でさえ仕方なくイヤイヤ出しとるのにぃ、そんな心を起こしますかいなぁ。

 尺八を吹いて布施心を起こさせる事なんか、σ(*_*)にとっては100年間吹き続けてもアカンと思ってました。

 そんな時「瀬戸内国際禅道場・専修院」というブログを見つけて、そこに「托鉢の意義」が、分かり易く書いてありました。
 
(文書引用については、専修院さんから御了解を得ております。)

没我

 2008年03月02日(日)
 専修院歳時記(托鉢の目的)<前半>テーマ:出逢い

 参禅者の方から、托鉢の目的は、ただ、金品を受け取るだけなのですか?
 それとも他に何か意義があるのですか?という質問をよく受けます。

 仏道修行の一つとして、托鉢があります。
 その基本観念は、托鉢者自身の
「没我」の訓練を実践する事です。
 托鉢者以外の人達には、布施の精神を呼び起こさせるための修業なのです。
仙龍寺
 そして托鉢修業に出立するときには、身なりを清潔に整えて、自己の尊厳を保ち、対する相手の尊厳をも守る心構えが大切なのです。

 宗教の宗とは、人の心、真の心、純な心、人としての正しい道、という意味なのです。

 世の不正に対する挑戦、ただ一人真摯な態度で孤独と戦い、あるいはまた、その孤独に親しみながら修業を持続する姿を見せることで、市井の人達に感動と元氣を与えることも出来るのです。

托鉢の目的        

 2008年03月04日(火)
 専修院歳時記(托鉢の目的)<後半>テーマ:伝統文化

 つまり、托鉢を志すものにとって何より大切なことは、托鉢者自身が我、精神生活の指導者たらんとの心構えなのです。

 デパートやスーパー、駅前等で無精髭に薄汚れた法衣まがいの衣類を纏って読経らしき言葉を唱えている僧形の男性、

 或いは年の暮れになると群れだって商店街を練り歩き、これみよがしにパフォーマンスをしながら金品を要求する僧形の輩達、

 彼等はバラモン(僧侶の階級における最上位)でも、仏教修行者でもなく、単なる物乞い、乞食にすぎないのです。

 真の托鉢修行者とは、托鉢をしているその日、その時々に、自らが新たなる感動を覚え、その感動を身体で感じるが故に、自らが精神生活の指導者たらんとの使命感に思いを強くするものなのです。

 私にとって、歩くこと托鉢することはまさに「祈り」そのものなのです。

「没我」の意味

 この記事に書いてある「没我」という意味を、専修院さんにメールで問い合わせたところ(当時のメールを、うっかり消してしまった)

仙龍寺
 「あなたは、尺八をやっておられるならば、尺八を吹きながら周りの状況が気にならなくなる位に、のめり込む時が有るでしょう。

 その「のめり込んでる状態」が
「没我」の状態です。」
という主旨の返事を頂きました。

 そか・・尺八を吹いてる事に「のめり込んでる状態」でするのが托鉢であり、何時いかなる時でも、そのような状態になれるように修行するのが托鉢だったのか・・

 ここで始めて、次の記載されている意味がわかりました。

 「托鉢とは己自身が、「没我」になる訓練とその真摯な態度が
他人に感銘を与え布施の心を起こさせる修業でなければならないのです。

                         2007.6.15

 「托鉢」と「乞食」の違いがわかったので、少し話は変わりますが、「第一章 極意」で書いた僧籍の人から
泰仙寺
 「(尺八を吹くのは)瞑想のためではいけない、それは自分だけが助かろうとしている。
 他の人をも助けなければいけない」


という「尺八を吹く目的」・・と書いたら、こいつはまた何を大袈裟な事を書いて、笑わそうとしとるんじゃ・・と思われるような課題が残っており、これが最後まで心に引っ掛かってました。

 最近、某寺の住職に、それまでの経緯を話して尋ねてみました。

 「大乗仏教ですなぁ。
 ううむうぅぅ・・その僧職の人は、どういうつもりで、そのように言われたのかわかりまへんが、私は瞑想のつもりで吹かれても良いと思いますよ。

 あなたが尺八にのめり込むように一生懸命に吹いておられるのを聞いて、他の人が心が安らかになったり、あぁ~美しい音だなぁ~・・綺麗な曲だなぁ~良いなぁ~・・という気持ちになってくれれば、
それで十分にその人を助ける事になってると思いますよ。」


 これを聞いた瞬間、あっ・・ここにも
「没我」を指す言葉が出てきた。
 そか・・専修院さんは、この事を言ってたのか・・と全てわかりました。

 なかなか難しいでんなぁ・・・托鉢のマネ事をしなかったら、こんな事は調べようともせず判らんかったろうなぁ。

 


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