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H20.10.13 UP尺八を携え歩いた四国遍路


「手向」と「悟り」

光明寺

 横峰寺へ行く途中に「日切大師」ちゅう所が有りますねん。
手向けと悟り、四国遍路記
 愛媛県の吉岡町という小さい町で、あんまり目立たない狭い道を200mほど入ると、そのお堂は・・・やっぱし・・・そりなりに地味です。

 その近くに「光明寺」という寺が有ります。

 真言宗の寺で、大師伝説が無いためか番外霊場にもなっておらず、そのためか遍路の人は、たいてい無視して通り過ぎるようです。

 んがぁぁぁ・・・皆の衆・・・・。
 このお寺さん、歩き遍路のために境内に通夜堂を作ってくれてました。

 霊場にもなってないのに、えらいでんなぁ。(*_*)σ
西林寺
 へい、トイレも有り、便器に小さい金魚がくっつけてありますから、今度行ったら、見てみなせぇ。(^_^)v

 昨年、通夜堂が有るのを知らずに山門で雨宿りをし、トイレが有るのを見つけ黙って使わせてもらいました。スンマヘン

 今年、その手前の霊場である「臼井の水」に寄った時、ベンチの壁に「お遍路さんへ」という書き出しで、寝泊まりは勝手にして良いが、食事等の接待までは出来ない主旨が書いてありました。
 丁寧に地図まで書き添えて・・・。

 「日切大師」に寄った後、その寺へ行き、昨年と変わってまへんなぁ。

 通夜堂は、勝手に利用して良いような事が書いてあったので、戸を開けて中に入らせてもらいました。 ゴメンクダセェ・・・ 

 六畳ほどの広さで畳みが敷いてあり、ポット等も有って自由に使って良いと書いてあります。
西林寺
 ここを利用した人が、感想等を自由に何でも書くノートが壁にぶら下がってます。

 サラァッ~と読ませてもらいました。

 σ(*_*)・・こういう感想を書いて有るノートは、なるべく読むようにしてます。

 思った以上に泊まっており、中には数日ここで過ごしたり、夜に住職と話をして相談に乗ってもらったような事も書いてあります。

 なかなか、よぉ~できた住職さんでんなぁ・・・

「手向」の意味

 「住職のつぶやき」という手製のわら半紙の冊子が、やはり壁にぶら下がっておりました。
手向けと悟り、四国遍路記
 「学級便り」の紙を綴ったような感じで、住職が手作りで作ったようです。

 手に取り最初に見たページが、この題名の「手向」です。

 内容は、ある小学生の書いた作文を引用したもので、うろ覚えながら書いてみますと

 
「バスに乗っていたら、オバアさんが乗って来ました。
 目の前のお姉さんが「すぐに降りるから」と言ってオバアさんに席をゆずりました。

日切大師 でも、次のバス停でも次のバス停でも降りずに、お姉さんは立っています。

 私は、いたたまれなくなって、自分が降りるバス停の一つ手前で降りました。

 あのお姉さん、私の席に座ってくれるかなぁ。」


 この小学生が、お姉さんに自分の席に座って欲しいと思い、一つ手前のバス停で降りた「その何の見返りも求めない行為」が「手向」だと住職は書いてます。

 σ(*_*)は、「手向」ちゅう単語は、墓か仏壇に花や線香でも供えるためだけの抹香臭い単語だと思っておりましたが、もっと深い意味が有ったんですなぁ。

 ほれ・・そこのジサマ・バサマ知っとりましたかいのぉ?。

 σ(*_*)はヒネクレて、どおしょうもねぇ性格なもんですから、普通の寺で、このような文を見たり話を聞いても、
「ふうぅ~ん・・ええ話しでんなぁ・・で、お寺さんは具体的に、どないな事やってんでっかぁ?」と思って読み流し、その場限りだったでしょう。
日切大師
 しかぁぁ~しぃ、この住職のやってる事も何の見返りも求めない「手向」であり、もんのすごく身近に感じたためか、この「手向」という言葉・意味が、素直に心に残りました。

 寺や坊さんの悪口をよぉ~けぇ~書くから、たまには、このような良い住職さんも居る事を書いておかんとね・・・。(^_^;)

 今回は、品行公正な良いジサマ・バサマへの、たぶんもう二度と無いと思われるくらい珍しい、チョ~マジメな法話でした。          合掌。

                       01/12/22記載


   

編集後記(悟り)

 尺八曲にも「手向」があり、四国霊場や他の霊場の本堂では、いつもこの曲を吹いております。
 いわばσ(*_*)のメイン曲ですなぁ。

 大師堂では、それに相応しい「阿字観」を吹いてます。
 「阿字観」を暗譜する以前は、他の曲を吹いてましたが・・・

 光明寺の通夜堂は、今もやってるのでしょうか?

 以前に聞いた話では、泊まった遍路が寺の好意に甘えすぎて、寺の米櫃を空にしちまったという話も聞いたんだけれど・・・

 ここの住職さんと話をした時に、
「悟りへの道は、一気に悟るものではなく、螺旋状に少しづつ上がって行く」という事を聞きました。

 「庵の坊さん」は
「何かを悟る時は、何気ないチョットした事でも一瞬で悟る事が有り、ある人は庭の落ち葉がハラリと落ちるのを見て悟った。

 悟る時は、道を歩いてる時かもしれないし、仕事をしている時かもしれず、また、身近なだれかの何気ない一言で悟る事があるかもしれない」
と言いました。

 この二人の坊さんが言う「悟りの道」は、相反した事を言ってますが、どちらの言う事もわかるような気がします。

 光明寺の住職さんの場合は、
「修行の過程・疑問」を質問した時の答えです。
 「庵の坊さん」の場合は、
「修行の心構えというか、ヒント」みたい事を教えてくれた時です。

 同じ「悟り」にしても質問内容によって答えが違ってますが、それはそれで良く、そおいうもんだというような気がします。


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