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2019/5/16 旅行
50年ぶりの博多は、大きく変わっていた。
以前は殺風景な埋め立て地のような所に、対馬行きの九州郵船乗場が有ったが、今では高速だか環状線だとかが「博多ふ頭」近くまで出来て、ビルが立ち並び車の渋滞まで起こしている。
第二ターミナルに有る二階の切符売り場へ行くと時間外なので閉まっており、ちょうど近くを通りかかった職員に聞くと、車の切符売り場は一階だと教えられた。
で・・教えられた切符売り場で、夜中の〇〇〇五分発・対馬行きフェリーに乗るための手続き行くと、2130から受付だと言われた。
2100頃、岸壁の車両待機所がどんな感じなのか見に行くと、そこらでリフトを運転しているアンチャンに呼び止められた。
「フェリーに乗るため、場所を見に来た。」
「フェリーり予約をしているか」
「してない」と答えると、あちゃあぁ~・・という顔して持っているメモ用紙を見ながら、「軽自動車ならば、ギリギリ大丈夫かもしれない。」と言われ、車両待機所の端に車を置かせてくれた。
えっ・・そんなに対馬へ行く車が多いの?・・・日本本土より韓国からの観光客の方が多いので、車なんて余裕で乗せれると思っていた。
切符売り場へ行くと、ここでも予約を聞かれて、あちゃあぁ~・・・という顔され、「今日はギリギリ大丈夫だ」と言われた。
五島列島といい・・対馬といい、失礼ながら離島へ行く車は少ないと思っていたのですが、けっこうフェリーに車が乗っているのですねぇ。
時間になってフェリーに乗り込むと、客室は「対馬」と「壱岐」に分かれており、「壱岐」で下りる人が眠りこんで下船出来ないのを防ぐためらしい。
以前は船内の毛布貸出はタダだったのだが、今は料金を取るようになっている。
100均の空気枕を使用してみたが、やはり100円均一はダメで、それでも耳栓して寝てたら「壱岐」到着アナウンスは聞こえずに眠れた。
5時頃、厳原港に着き、7時頃までそのままフェリーで寝れると聞いてたが、岸壁到着すると係員が寝ている人を起こしていた。
「厳原港ターミナルビル」の待合室は閑散としており、釣り客らしいのが一人だけ居た。
買っていた朝飯用のパンを食べ、待合室をウロつくと「朝鮮国信使絵巻」の拡大図が展示されており、おぉぉ・・さすが対馬。
しかし、韓国通信使が鶏ドロボーしてる有名な絵が展示されてないのが、もんのすごく残念。
「厳原港ターミナルビル」を出ると道端の大きな看板に、ワケのわからんハングル文字で何か書いてあり、おぉぉ・・さすが韓国の観光客が多いのだと実感した。
以前、厳原に住んでいたので土地勘が有るから看板が読めなくても何ともないが、日本人客が初めて対馬に来てこの看板を見れば、コンビニマークだけはわかると思うが、他はわからず途方に暮れるだろなぁ。
近くの岸壁には、巡視船艇が4隻繋がれて休んでいます。
以前は「あそゆき(だったと思う)」という巡視艇が厳原に一隻だけ配置され、比田勝にも巡視艇が一隻いて、計2隻で対馬を護っていましたが、時代の流れで船艇配置も多くなったよおです。
元保安部が有った所へ行ってみると、建て替えられて老人ホームになっており、樹木が茂って厳原港が見えず、近くの病院へ行ったが、やはりあまり港が見えなかった。
事前情報で仕入れていた、対馬で唯一の24時間営業しているコンビニ近くに、元住んでいた宿舎へ行きましたが駐車場になったようで場所が特定できなかった。
ちなみに、コンビニ近くに当時はチッコイ店がありましたが、当然もう無くなっており、付近に銭湯も有ったのだが、たぶんもう無いだろなぁ。
陸上自衛隊対馬駐屯地が近くに有り、以前は門からグランドのような広い敷地の向こうに関連施設が見えたのですが、今は門前に建物が有ります。
50年前、駐屯地行事で敷地見学が出来た日、左がかった人達が10人ほど旗を持って門前でワアワア言って抗議してました。
しばらく見てましたが抗議団体の列にわざと割り込んで門衛に近づき「見せてもらえますか」と言うと、数人の門衛兵(と言うのかな)がサッと直立して敬礼して入れてくれました。
はい、わざと左ががかった人達に、自衛隊支持者も居るんだよ・・と見せつけてイヤガラセをしてやったのです・・ワハハハハッ。
この附近は「桟原(さじきはら)」という地名が有り、当時はどういう意味かと思っていましたが、石造りの説明杭が出来ており「朝鮮通信使饗応の舞台 宗家桟原館 文化8年(1811年)朝鮮通信使幕府接遇の地」と書いてあった。
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