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東南角石塁、対馬・金田城 2019/5/19 旅行 金田城遊歩道地図、対馬


防人の石塁「金田城」/「対馬」紀行

対馬・県道より金田城入口   金田城登山口・駐車場、対馬   金田城登山口、対馬

 対馬到着の第一日目は、午前中に美津島町の「金田城」を散策して、午後から浅茅湾を走る市営定期船に乗る予定にしました。金田城へ軍用道路、対馬

 自分が初任地の対馬に赴任した時は「金田城」の事を知らず興味も無く、今回対馬に再訪した時も、どうせ大した事は無いだろおと思って最初は観光目的地から外していたのです。

 しかしネットで調べてみると、「金田城」には旧軍の砲台跡が有り、防人が作った「石塁」が残っているのを知り、おぉぉ・・・そりゃあぁ~話の種にも行ってみなくちゃあぁ。

 厳原から「金田城」入口への県道は、対馬に居た時に何度も通った事が有りますが、50年過ぎるとわからんですねぇ。金田城へ軍用道路2、対馬

 県道の「金田城」入口の看板が有る所から、車幅1台分の細い道を対向車が来なければええがなぁ・・と思いながら運転し、幸い対向車も無く、「金田城登山口」の駐車場に着きました。

 「金田城」への道は細い山道かと思ってましたが、思った以上に広い道で、そりゃあぁ~山頂に砲台を作って勤務するほどだから、トラックが通れる道幅でないと資材が運ベませんわなぁ。

 山際には側溝も作られており、しっかりした軍用道路です。

金田城軍用道路よりの眺め、対馬   東南角石塁、金田城、対馬   「南門」金田城、対馬

 やがて海が見える見晴らしいの良い所へ出て、おぉぉぉっっ・・・!!

 すぐ近くに「金田城壁石塁」の標識が有り、ネットで印刷した地図では「東南角石塁」となっている。

 石を積み重ねた構造物が万里の長城のように海へ向かって設置されており、これまた、おぉぉぉっっ・・!!、これが防人が作った石塁かぁ、これだけの物を造るのは、たいへんだったろおなぁ。

 すぐ近くの高台に「南門」というのが有り見に行ったが、土砂崩れのようにシートが掛かっており、何がすごいのか、よぉ~わからん。

「東屋分岐点」付近、金田城、対馬   「東屋分岐点」、金田城、対馬   金田城軍用道路3、対馬
金田城軍用道路4、対馬   切通し・金田城、対馬   金田城・軍用道路切り替えし場、対馬

 「魏志倭人伝」には、「初めて一つの海を渡り、一千余里。対馬国に至る。・・チビッと略・・島の居たる所は絶島にて、山は険しく深い森が多い。・・も一度チビッと略・・。良田が無く海産物を食べて自活し、船に乗り南北に市する。」と対馬の事が記載されます。「南西部石塁」付近、金田城、対馬

 これだけの短い文章で「対馬」の地形・特徴を見事に表現しており、さすがに「魏志倭人伝」を編集した人はカシコクて学が有りますなぁ。

 これを書いてる時に調べると、初期の「防人」は武器・食料は自分で準備し、現地に着いてから3年間は自給自足しながら警戒にあったったそうです。

 今時そんな条件で募集したら、どんなブラック企業じゃと叩かれて、だれも来ないでしょうなぁ。「南西部石塁」金田城、対馬

 だいたい本土から対馬まで来るだけでもタイヘンなのにぃ、逃げようと思っても絶島で本土から遠く離れているしぃ。

 「万葉集」に「韓衣裾に取りつき泣く子らを置きてそ来ぬや母なしにして」という防人の和歌が有り、「衣の裾にすがりついて泣く子供を置いて来た、母も死んでしまっているのに」という意味らしい。

 そんな防人の状況を思い浮かべながら「石塁」を見ると、防人や残してきた泣いてる子供達がホンマにカワイソーに思う。


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 恥ずかしながら「YouTube」に尺八独奏「惜別の唄」を載せており、聞いて頂ければ泣いて喜びます。

 当「遍照の響き」ホームページに掲載されている写真がpixtaで販売されています。


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