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  高瀬観音、会津33観音  H21.3.7UP


「如来堂」の新選組と中野竹子/会津33観音霊場(高瀬観音)

如来堂阿賀川、会津33観音

 蟹川橋を渡り「天満」集落より「高瀬」に向かう途中、遠くに「如来堂」と思われる堂の屋根が見えます。

 この「如来堂」ちゅうのは、戊辰戦争の時に母成峠で破れた新撰組が、立て籠もって戦った所らしいです。

 新撰組副長の「土方」が、戦さはここに至りてこの場で戦うよりも、これから庄内へ転進して再起を計ろうとする考えに対して、斎藤一が「まさに今、会津の城は落城するかもしれんのに、これを見捨てて行かりょうか・・」と言うのに同意した新撰組隊士達が「土方」達と分かれて、「如来堂」に籠もってコンジョ出して戦った場所らしいです。蟹川橋、会津33観音

 その頃はあまり戊辰戦争に興味が無かったので、近くなら寄ってみたのですが、「如来堂」は道から遠く離れていたので行かなかったけれど、今思うと行っておけば良かったなぁ。

 戦術的に見れば「兵力の小出し・遂次投入」は絶対に避けるべきで、土方さんの言うように転進して、準備を整え再起を決した方が正しいと思う。如来堂、会津33観音

 しかし、すぐ間近で落城寸前になっている仲間の窮状を思うと、見捨てる事が出来ない「義」の心も、よぉ~わかります。

 σ(*_*)だったら、どおしとったかなぁ・・・

高瀬の大ケヤキ

 高瀬の大木(ケヤキ)、会津33観音     高瀬の大木、会津33観音      高瀬の大木、会津33観音
 前方に「高瀬の大ケヤキ」が小高い丘に立っており、さすが地図にも載るだけあって大きい木です。高瀬の大木、会津33観音

 説明書きによると、関ヶ原の戦いの頃、この場所に城を作る工事をしていたのですが、東軍が勝った報を聞いて途中で作業を断念したらしい。

 へえぇぇ・・そんな事が有ったのだ・・こんなタンボの真ん中に城を造ったら、敵から攻められ易いように思うが・・

高瀬観音

高瀬の大木と観音堂、会津33観音  高瀬観音堂 彫刻、会津33観音
 「高瀬の大ケヤキ」のすぐ近くに寺が有り、境内に「高瀬観音」があり堂の彫り物が良いですなぁ。

 大きな龍と、橋を渡ろうとしている人物が彫ってありますが、何から題材を取ったんじゃろう?

 高瀬観音堂、会津33観音   高瀬観音堂、会津33観音   高瀬観音堂、会津33観音

 参拝を終え、次の寺へ行く頃になると、昼過ぎになっており腹が減りました。

 今日巡って来た所には、食堂も店も無く、自販機ぐらいはあったかもしれんが・・・

 会津近郊に来た時、コンビニで何か買おうと思ったら、越後屋が近くにラーメン屋を見つけ、おぉぉ・・さすが越後屋、欲と食う事に絡む事は、目ざとく見つけるヤツじゃ。

 ラーメンは喜多方と違い、普通のラーメンでしたが腹が減っていたので美味かった。

中野竹子中野竹子奮戦の地、会津33観音

 近くに「中野竹子 奮戦の地」というのが有るのを知ってたので行ってみると、案内看板が出ている工場の脇道のような所へ入って行きます。

 公園のような草地が有り、独り薙刀を構えた新しい「中野竹子」像が建っています。中野竹子 像、会津33観音

 「中野竹子」と言っても、知ってる人は知ってるが、知らない人は「だれ?、どっかの御令嬢?」と思うかもしれまへん。

 戊辰戦争の時に、女子アマネゾス軍団を結成し、妹や母と一緒に薙刀を担いで、攻めて来た新政府軍と戦ったそうですがなぁ。

 しかし奮戦むなしく、旧湯川の近くで銃弾を受けて倒れ、駆け寄った母・妹に「首を切って介錯せよ」と言い残して死んじゃったらしいです。中野竹子奮戦の地 旧湯川、会津33観音

 わずか「20才」という若さが何ともいえん、痛々しさと哀れみを感じ、今時のネーチャン達は、国難が来た時にケータイを持つ手を薙刀に代えて戦うじゃろおか?

 左がかった平和な人達は「ケンポー9条があるから、大丈夫」と言うけれど、中国から南沙諸島の侵略を受けている関係近隣の国に対して 「9条の平和憲法を、あぁたの国でも作れば、中国から侵略されないのだ。」と胸を張って言えるかな?

 たぶん鼻先で、笑われるじゃろう。

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 恥ずかしながら「YouTube」に尺八独奏「手向」を載せており、聞いて頂ければ泣いて喜びます


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