「如来堂」の新選組と中野竹子/会津33観音霊場(高瀬観音)
如来堂
蟹川橋を渡り「天満」集落より「高瀬」に向かう途中、遠くに「如来堂」と思われる堂の屋根が見えます。
この「如来堂」ちゅうのは、戊辰戦争の時に母成峠で破れた新撰組が、立て籠もって戦った所らしいです。
新撰組副長の「土方」が、戦さはここに至りてこの場で戦うよりも、これから庄内へ転進して再起を計ろうとする考えに対して、斎藤一が
「まさに今、会津の城は落城するかもしれんのに、これを見捨てて行かりょうか・・」と言うのに同意した新撰組隊士達が「土方」達と分かれて、「如来堂」に籠もってコンジョ出して戦った場所らしいです。
その頃はあまり戊辰戦争に興味が無かったので、近くなら寄ってみたのですが、「如来堂」は道から遠く離れていたので行かなかったけれど、今思うと行っておけば良かったなぁ。
戦術的に見れば「兵力の小出し・遂次投入」は絶対に避けるべきで、土方さんの言うように転進して、準備を整え再起を決した方が正しいと思う。
しかし、すぐ間近で落城寸前になっている仲間の窮状を思うと、見捨てる事が出来ない「義」の心も、よぉ~わかります。
σ(*_*)だったら、どおしとったかなぁ・・・
高瀬の大ケヤキ
前方に「高瀬の大ケヤキ」が小高い丘に立っており、さすが地図にも載るだけあって大きい木です。
説明書きによると、関ヶ原の戦いの頃、この場所に城を作る工事をしていたのですが、東軍が勝った報を聞いて途中で作業を断念したらしい。
へえぇぇ・・そんな事が有ったのだ・・こんなタンボの真ん中に城を造ったら、敵から攻められ易いように思うが・・
高瀬観音
「高瀬の大ケヤキ」のすぐ近くに寺が有り、境内に「高瀬観音」があり堂の彫り物が良いですなぁ。
大きな龍と、橋を渡ろうとしている人物が彫ってありますが、何から題材を取ったんじゃろう?
参拝を終え、次の寺へ行く頃になると、昼過ぎになっており腹が減りました。
今日巡って来た所には、食堂も店も無く、自販機ぐらいはあったかもしれんが・・・
会津近郊に来た時、コンビニで何か買おうと思ったら、越後屋が近くにラーメン屋を見つけ、おぉぉ・・さすが越後屋、欲と食う事に絡む事は、目ざとく見つけるヤツじゃ。
ラーメンは喜多方と違い、普通のラーメンでしたが腹が減っていたので美味かった。
中野竹子
近くに「中野竹子 奮戦の地」というのが有るのを知ってたので行ってみると、案内看板が出ている工場の脇道のような所へ入って行きます。
公園のような草地が有り、独り薙刀を構えた新しい「中野竹子」像が建っています。
「中野竹子」と言っても、知ってる人は知ってるが、知らない人は「だれ?、どっかの御令嬢?」と思うかもしれまへん。
戊辰戦争の時に、女子アマネゾス軍団を結成し、妹や母と一緒に薙刀を担いで、攻めて来た新政府軍と戦ったそうですがなぁ。
しかし奮戦むなしく、旧湯川の近くで銃弾を受けて倒れ、駆け寄った母・妹に
「首を切って介錯せよ」と言い残して死んじゃったらしいです。
わずか「20才」という若さが何ともいえん、痛々しさと哀れみを感じ、今時のネーチャン達は、国難が来た時にケータイを持つ手を薙刀に代えて戦うじゃろおか?
左がかった平和な人達は
「ケンポー9条があるから、大丈夫」と言うけれど、中国から南沙諸島の侵略を受けている関係近隣の国に対して
「9条の平和憲法を、あぁたの国でも作れば、中国から侵略されないのだ。」と胸を張って言えるかな?
たぶん鼻先で、笑われるじゃろう。