「前原」市街地を通り抜けて漁港近くの細い橋を渡り、再び県道に出ようとしたら地図に記載されてる道が無い。
しばらく付近をウロウロして、漁港まで行ってみたがわからん・・・降参して橋の所まで戻り、県道へ出ました。
「磯村」は県道ながらも、道幅が狭く上がり坂になっており、ぼちぼちこの付近が「安房国札34観音霊場」の18番札所「石見堂」だと思い、トッツアンに聞くと「すく先のカーブミラーになっている所を、右に上がる坂道だ。」と親切に教えてくれました。
そのカーブミラーの所へ行ってみると、なるほど入り口に、ちっこい石に「石見堂」と書いてあり、こりゃあぁ~・・・始めての人は、だれかに聞かない限り、絶対にこの入口はわからんじゃろなぁ。
なんせ石標が、カーブミラーとバス停「石見堂」の陰になってるしぃ・・・石標もチッコイしぃ・・・根本付近は、ゴミ置き場になってるしぃ・・・
付近の状況をデジカメで写真を撮っていると、越後屋が狭い坂道を自転車を押して歩いたと思ったら、すぐに戻って来て「あかん・・」と言って近くの駐車場に自転車を置き、よっぽど急坂だったんじゃろなぁ。
その様子を見ていたオババが「お参りですか?」と聞かれ「はい、わかりにくい所ですねぇ。」と答えた。
狭い坂道を上がって行くと道端に猫がおり、人家だと思った所を上がると、それが18番札所「石見堂」でした。
札所「石見堂」境内に車が置いてあり、この狭いS字坂道を、よぉ~上がってこれるもんだ。
堂内の天井には船の模型が飾ってありましたが、たぶん他の人達はあんまり気付かないじゃろなぁ。
「石見堂」両脇に雨水の溜升が置いて有り、その上に被せてある竹網を、何の気無しに取って中を覗くと、鯉が数匹泳いでおり、エサをくれるのかと思って、尻尾振りながら喜んで寄って来ます。
もう片方の溜升も覗くと、やっぱり3匹ほど泳いでおり、よぉ~こんな条件で生きてるもんだと思う。
札所「石見堂」の参拝が終わって自転車を置いた所に戻ると、ちょうど黄色のライフジャケットを着た学生の一団が来ました。
最初は10人程度かと思ったら、後から続々と来ます。
しかも、それが、あぁたぁ・・・横広がりもせず、2人程度が並んで、キチンと右側を歩いてるじゃありまへんか・・。
普通ならば、仲良しグループ同士がダンゴ状態になって、人の迷惑も顧みず道幅一杯に広がり、「キャピ・キャピ・・ワァワァ・・」言って遊びながら来るのですがねぇ。
今時、珍しく躾が出来てる学校だと思い感心し、たぶん日教組が牛耳ってないマトモな学校じゃろなぁ。(^O^)ナハハハ・・・
この生徒達を眺めながら、以前に室戸で見た、白装束の遍路団体が、見事に一列で片方側だけを歩いてるのを思い出した。
そのうち学生の方から、「こんにちわ~」と挨拶をし始め「何しに行くの?」と聞くと「カッター訓練」と言います。
へえぇぇ~・・カッター訓練する学校なんて、高校の海洋関係の学科かと思い「高校生?」と聞くと「中学生」・・列が行き過ぎるまで出発を待ちました。
近くに「青年の家」が有るので合宿でもしており、そこから歩いて来たよおです。
その近くに「鴨川松島」の看板があり確かに景色は良く、あんまり景色が良かったので「青年の家」からの眺めもスゴイだろなぁ・・と思って行ってみましたが、草が生えており見晴らしは良くなかった。
途中に有る「仁右衛門島」には、最初は行くつもりは無かったのですが、途中の岩場の風景が良さそうなので、ついでに寄ってみました。
漁港まで行くと、すぐ目の前の島に「仁右衛門島」の大きい看板が掛かってます。
ここへ来る途中に何度か「仁右衛門島」の看板が有りましたが、どうせどこかの民宿の宣伝だろおと思っていたんです。
で・・この時も、軽い気持ちで島には「仁右衛門」という民宿が有るのだろおと思っていました。
この原稿を書いてる時に調べてみると、源頼朝が平家に敗れて、この「仁右衛門島」の岩穴に隠れてた時、島主に助けられたらしく、その子孫がずうっ~と、この島に1件だけ住み続けているそおです。
へえぇぇ・・・由緒正しい来歴が有ったんですねぇ・・そりゃあぁ~観光資源として成り立ち、あちこちに看板も設置しますわねぇ。
ほれ・・なんせ・・・オッチャン、学校で勉強しなかったので、こんな伝説は知らんかったですがなぁ。
もっと島に近寄ろうとしましたが、雨がパラつき始めたので引き返し、漁港で網を干していたオババも、急いで網を片付け始めます。
あっ・・題名の「太海」は、この付近の地名です。
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