聖湖のレストランで食事して、観光案内所で「善光寺西街道」絵マップをもらいました。
係の人に聞いてみると、善光寺方向への標識は充実しているが、反対方向の麻績方面(σ(*_*)らが進んでる方向)への標識は不親切らしい。
まぁ・・善光寺西街道という名前が付いてる位だから、善光寺へ向かって行く人の方が多いのかもしれん。
ついでに「聖博物館」は、どの辺かと尋ねると、ちょうど聖湖の対面側のよおで、「聖博物館」の展示中身はどおでも良かったが、そこには戦艦「陸奥」の主砲が飾ってあると下調べしていたので、それだけは何がなんでも是非見たかった。
聖湖の周囲を歩いて行くと、金網に囲まれた広場に飛行機が見え、細長い陸奥の砲身も見えたので、「聖博物館」に入らずに外から写真を撮りました。
主砲口径が40.6cmらしく、昔σ(*_*)が美少年の頃に船に乗っていた時、3インチ砲(7.6cm)を直に見ていたので、戦艦の主砲にしては思ったより小さいなあ・・と思った、あっ・・ちなみに乗ってたのは巡視船です。
戦艦「陸奥」は広島湾で謎の爆発を起こして沈んじゃったので、その付近に記念として飾られるというのならばわかりますが、何で海から遠く離れた山深い「聖博物館」に「陸奥」の主砲が置いてあるのか、その経緯がわからん。
たぶん観光目玉として貰い受け、自衛隊から廃棄の飛行機も貰って展示したのでしょう。
あんまり観光客が入ってるようでは無く、σ(*_*)みたいにタダで金網越しに見物するケチな人間も居るだろおから、この「聖博物館」・・・赤字になるんでないかなぁ。
「このまま聖湖を一周する」と言うと、越後屋が「引き返した方が早い」とワガママ言い、どちらが早いか試してみようと別れたら越後屋の方が早く、せせら笑いを浮かべながらベンチに座って待っていました。
「聖湖」から車道を少し行った所に「善光寺西街道」への降り口があり、道幅は広く山道のように細くはなかった。
途中に小さい橋の有る付近でY字に分かれる道があり、どちらへ行けば良いか少し迷いました。
目の良い越後屋が、片方の道に石仏のような物があるのを見つけ、その道を通ったら正解でした。
もっともそれは石仏ではなく句碑だったが、これまた一つどころじゃなく、ズウッ~と墓石みたいに点々と置いてあり、まぁ・・道標代わりにはなると思うが、何もこんなに沢山置かなくても良いと思うがなぁ。
「北向観音」の句碑といい、俳句する人は句碑を設置するのに、もんのすごい執念を掛けているんじゃろか。
句碑を設置する事により、その風景状況が壊されるのが、俳句している人には、わからんのかなぁ・・句碑を建てる人の俳句なんて、どおせ大した句ではないと思う。
「お仙の茶屋跡」が有り、どんなカワイソーな話かと思ったら、「この茶屋にお仙という女が居て、旅の武士に一目惚れして、悲恋の一生を終わった」という話しでした。
どおじゃ、もんのすごいカワイソーな話じゃろう、それと同じようにσ(*_*)も一目惚れした女の人と一緒になる事ができず、カワイソーな人生を今も送ってるんやでぇ。
どや、こっちの方が現実的であり、もっとカワイソーで涙が出て来る話じゃろぅ。(^O^)カッカッカッ・・・
車道を横切って「善光寺西街道」を行くと「馬の水飲み場」の標識が有り、水がチョロチョロ流れてますが、そこには「この水は飲めません」と書いてあり、これが無かったら試しに飲んでみたかもしれん。
「市野川」集落に入る頃、ようやく句碑ではなく石仏が奉ってり、やっぱし街道沿いには句碑なんかじゃなくて石仏でないと情緒が無い。
ちなみに聖湖付近の峠は「猿ケ馬場峠」と言うそうで、松尾芭蕉もこの道を通って「姨捨」へ行ったらしい。
たぶん松尾芭蕉が歩いた全国の街道・場所には、全く俳句に興味の無いσ(*_*)みたいな人にとっては読みもしない句碑が、所構わずアチコチに設置してあるじゃろなぁ。
そおいう事をするのが、いかにも日本人的らしい。(^O^)ケケケ・・・
「善光寺西街道」を歩いてみると、標識は「市野川」への入口や「番所跡」付近では善光寺方面へ行く人にはわかるかもしれんが、逆方向へ歩く人には、少々迷って確かにわかりずらく、できれば整備してね。
夕暮れ近く「海善寺」を通り、今朝、汽車に乗った聖高原駅に到着。
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