油川駅を朝6時頃の汽車に乗り、「蟹田」経由で昨日のうちに自転車を置いた「三厩駅」に7時45分頃着きました。
終着駅「三厩駅」には、リュックを背負ったσ(*_*)らと同世代のトシヨリが3~4人降り、こんな北の外れの終着駅まで来て、汽車に乗るのが趣味なのだろうか、それとも旅行かな?。
ここからの旅行としては龍飛崎方面だろおが、交通の便としてはバスしかなく一応接続してるようで、一緒に汽車から降りた同世代は、全員バスに乗りました。
しかし、帰りはどうするんじゃろ?・・と他人の心配をし、「龍泊ライン」はバスが通ってないので、同じルートでしか戻って来れまへん。
それにしても、なんせここは鉄道の便数が少なく、龍飛崎方面は、どん詰まりの場所なので、行くとしたら車以外の旅行者には難しい場所だと思います。
「三厩駅」より「今別」へ向かって自転車を漕いでると、道端にタイヤで作ったロボット?が置いてあり、アイデア賞もんですなぁ。(^O^)
今別郵便局前の看板に「かんのんさん」標識が有りましたが、その方向がやや斜めを向いており、そこの横道に入るのか、今のままの道を進んで200mなのかわからん。
通りがかりのオババに聞くと、「横道を行き、すぐ下へ降りる道が有る」と教えてくれ、最後に「ごくろうさまです。」とまで言ってくれました。
行ってみると踏切を横切るようになっており、そおいえばネットで調べた時に、そんな所があったけれど、ここだったのね。
踏切を渡ると、すぐに津軽33観音霊場の20番札所「高野山観音堂」敷地で、おまけに境内には大好きな木造建物までも有りました。
観音堂に近づくと先に行ってた越後屋とオババが話しており、ついでに「前の校舎のような物は小学校か?」と聞くと「保育所跡だ」と言います。
さらについでに今別小学校の場所を聞くと「境内の階段を上がると三十三観音石仏が有り、さらに行くと小学校がある。少数の生徒だが、まだ現用校だ。」と教えてくれました。
σ(*_*)が20番「高野山観音堂」内で参拝している間、越後屋がヒマなので教えられた今別小学校へ行き、「少し離れているが大きい木造校舎で、グランドで子供達が野球していた。」と偵察報告をします。
参拝後、今別小学校へ行くと途中に「三十三観音石仏」が有り、草が生えてる広い敷地になってます。(一番上の写真)
石仏が有り、中央に広い敷地という事から愚考すると、以前はここに観音堂が有ったのだが、現在地へ移設したのではないかな?という気がする。
石仏を通り過ぎて行ってみると、すぐにグランドが有り立派な木造校舎の「今別小学校」が見えました。
「袰月」へ向かう途中、このクソ暑いのに国道をマラソンしている人がおり、先々で自分達が休んでると、この人が追い抜いたりしてましたが、ずうっと走っており、津軽半島を一周してるのでしょうか?。
けっこう日焼けしており、ウエストポーチ一つだけ付けて走ってます。
「与茂内」集落までは、わりと平坦な道でしたが、鋳釜崎の岬は坂道で押し歩いてると、海岸の岩に穴が開いてるのが見え、ふううぅ~ん・・・観光地なら「何とか岩」と称して売り出すじゃろなぁ・・と思って写真だけ撮って通り過ぎました。
これを書いてる時に調べてみると、やっぱり「松陰くぐり」という名前が付いてたのですねぇ。 (^O^)
道端に「袰月海雲洞」の看板が出ており、山側には赤い橋があり目立ってます。
小さい川の付近には、やたらと赤い手摺りとか橋とか鳥居が有り、とりあえず赤い所へ行けば札所が有るだろおと 鳥居まで行くと石碑が建ってる家が津軽33観音霊場の21-1番札所「袰月海雲洞釈迦堂」でした。
2人のオババが、堂付近の狭い所で海草を整理しており、何もこんな狭い所でしなくても・・オババがジロッとこちらを見ます。
堂内に入れたので、一曲尺八を吹いて参拝。
ちなみに21番札所は、2つ有るようですので、ここを21-1番「袰月海雲洞釈迦堂」としましたが、何故札所が2つになったのか、わかりまへん。
他霊場においては「オラとこが由緒正しい本家・本元じゃ」と言って二つの寺が札所争いしてる所も有りますが、ここはそのような生臭い話は聞いてまへん・・たぶん無人だからでしょう。
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