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 鉢崎関所跡、「越後33観音霊場・只一人」紀行文  H20.4.15 巡礼    H21.11.28 UP


松尾芭蕉と伊能忠敬の逸話/越後33観音霊場・只一人(鉢崎)

米山駅

 

国道8号線、「越後33観音霊場・只一人」紀行文     「鉢崎」旧道、「越後33観音霊場・只一人」紀行文     米山駅、「越後33観音霊場・只一人」紀行文

 国道8号線より旧道へ入り、そのまま米山駅まで行けるかと思ってましたが、学校のグランドに、ぶつかっちまった。米山駅前より米山を望む、「越後33観音霊場・只一人」紀行文

 グランドを突っ切ると米山駅へ行けるか不明だったので、もう一度国道の方へ出て米山駅へ向かい、「米山駅」で一休み・・あぁ疲れた、疲れた。

 米山駅は、失礼ながら潰れちまったような雰囲気のJA建物を利用した駅舎のよおで、さらにその建物を利用して臨時診察所みたいのも併設されてるようです。中部北陸自然歩道案内図、「越後33観音霊場・只一人」紀行文

 米山駅の真正面からは米山がクッキリと見えます。

 近くの案内看板を見ると「中部北陸自然歩道」なるものが有るよおで、この「米山」から「鯨波」付近まで海岸沿いに自転車でも行けるような地図が書いてあります。

 ただ惜しむらくは、だれがやったのか地図の半分ほど破られています・・悪いやっちゃなぁ。

 もしこれを読んでる関係者の人が居たら、直しておいてね。

 自然歩道を歩くのも魅力を感じましたが、どうも関所跡など旧道は通らないよおです。米山駅前より聖ケ鼻を望む、「越後33観音霊場・只一人」紀行文

 米山駅を出発して人家が密集している狭い入り組んだ小道を通って昔の広い旧道へ出ました。

 σ(*_*)、こおいう方面の方向感覚は良いんだよねぇ。

松尾芭蕉と「たわら屋」

 「鉢崎」の街道を歩いてると、なかなか芸術的な板塀を見つけたので、デジカメでパチリ・・・庭造りの参考にしよう。鉢崎、「越後33観音霊場・只一人」紀行文

 道端のトラックで何か作業しているジサマに「あのおぉ・・「鉢崎」で松尾芭蕉が泊まったという宿跡が有ると聞いてますが、どの辺でしょぅか」

「あぁ・・それなら、もう少し先の、あそこに見える所ですがなぁ。看板も有るけど、もう宿は無いでっせぇ」

 行ってみると「たわら屋跡」の標識と説明板があり、ほんまに何も無い草地になっており、後ろに見える廃屋は、たぶん関係ない家だと思う。鉢崎・松尾芭蕉の宿「たわら屋」跡、「越後33観音霊場・只一人」紀行文

 松尾芭蕉が「鉢崎」に宿を取ったのには、深ぁ~いカワイソーなワケが有りましてなぁ。

 出雲崎から歩いて来た松尾芭蕉は、紹介状を貰った柏崎の家に泊まるつもりだったらしいんです。

 ところが、その家の主人が留守だったよおで、σ(*_*)みたい小汚いかっこうしたモンが、いきなり訪ねて来て「泊めてくれ、ほれこれが紹介状だ」と使用人に言ったらしいですなぁ。

 そんな人が訪ねて来るなんて、主人から聞かされていない使用人は松尾芭蕉に、

 「るせー・・、どこで拾って来た紹介状か知らんが、オラとこの家は素性がわかる由緒正しい者しか泊まる事ができんのじゃ。

 いわゆるセレブの人とか、脱税やって金を貯め込んだり、母親から毎月1500万円余りの政治資金をもらうルーピーアホ鳩のような首相経験者のような人でないと泊まれんのじゃ。」


と言ったかどうか、わからんが・・とにかく宿を断って松尾芭蕉を追っ払ったらしい。

 まぁ、その人の着てる物とかカッコウ等の外観で、人物・素性を判断される事は、よぉ~有る事だと思い、小汚いカッコウしている者を見て「この人はホントは身分の有る、お金持ちの人だとか、有名人なのだけれど、事情が有って身分を隠しているのだと思え」と言う方が無理だと思う。「鉢崎」旧街道、「越後33観音霊場・只一人」紀行文

 今ではもう無いと思いますが、昔の四国遍路はどこの宿でも簡単に泊まれるというわけでなく、専用の遍路宿でないと泊まれなかったよおです。

 遍路には「負」のイメージが有るので、泊めるとその「宿の格」が落ちるという世情だったので、遍路が普通の宿に泊ろうとすると「満室です」と言って断られる事も有ったそうな。

 それが今じゃぁ、「癒しの遍路」とか言われて、昔の事なんかキレイサッパリ忘れたフリして、団体遍路のバスツアーなんかは「お遍路さん大歓迎」ですからなぁ。(^O^)

 この話は以前に四国遍路していた時、タクシーの老運転手から聞いた話で、松尾芭蕉さん達も、そんなタグイの人達に見られて、断られたのかもしれまへんねぇ。

 帰ってきた主人が使用人から報告を受けると、「そりゃアカン。すぐに追い掛けて行き、丁寧にお詫びして連れ戻して来い。」と使用人に言いつけ追い掛けさせたそうな。

 やっと追い付いた使用人は、松尾芭蕉に戻ってくれるように頼んだけれど、芭蕉もガンコジジイだったらしく「やだ」とゴネまくり、どうしてもこおしても戻らなかったらしい。

 しかし、街道の道端で、いい年した大人達が「お願げぇしますだ、おでぇかんさまあぁ~・・何卒戻ってくださいましなぁ・・家に帰ればワシには腹減らした子供とカカアが口あけて待ってますだぁ・・」と泣き落とししてる使用人に、松尾芭蕉が「るせー」と大声上げてケンカしとるのも、街道の風物詩として情緒があると思う。(^O^) 鉢崎・石碑、「越後33観音霊場・只一人」紀行文

 ちなみに断られてスゴスゴと帰った使用人は、主人に叱られて、また再び呼び戻しに2度ほど迎えに行ったが、やっぱりアカンかったらしい。カワイソーに・・・

 よっぽど使用人が松尾芭蕉に不愉快感を与えたのか、それとも芭蕉も年を取ったので老人特有の頑固者になったのか・・σ(*_*)も気を付けないと・・・

 少し行った民家の入口付近に、何でこんな所に墓石?が・・と思い、良く見ると墓石ではなく、何か彫ってある石碑のようですが、風化して何が書いてあるかわかりまへん。 だれかカシコイ人、知っていたら教えてくんなさい。

伊能忠敬と鉢崎関所

 その先に「鉢崎関所跡」の看板が有り、やっぱし、なあぁ~も有りまへん、あっ・・チッコイ石の碑がポツンとサミシそうに有ったのだった。

 ここの鉢崎関所にもカワイソーな言い伝えが有り、伊能忠敬と言う日本地図を作ったエライ人が居ましてなぁ。

 このお方達が付近を測量して、夕方に鉢崎関所を通り過ぎようとした時に、被り物も取らずに関所を抜けようとしたので、関所の役人がそれを見とがめて「無礼者!!・・ 関所破りじゃあぁぁ~・・出会え・出であええぇぇぇ~・・総員配置に付けぇ~・・木戸を閉めろぉ。」鉢崎関所跡、「越後33観音霊場・只一人」紀行文

 伊能忠敬さん達にしてみれば、「幕府御用」の旗を立てており、各藩へは自分達の事は既に通達済みで何のお咎めも無いと思ってたらしいが、「鉢崎関所」側では、そんな事を聞いてないもんだから、新手の関所破りだと思い非常警報を発令したらしい。

 早い話が、「お上」の名をかたる不届きなヤツめ、見た事もない測量器具は、北朝鮮向けの密輸品でねぇのか・・というような感じで・・

 ビックリした伊能さんも負けじと「オレ達は幕府の命でやっとるのに、何をモンク垂れるんじゃ。そっちこそ無礼者め!!。

 普通ならば「お役目、ご苦労さん」と言って、座布団と茶の一杯くらい出すのが礼儀というものなのに、帰ったら江戸幕府に言いつけてやっからな。」


と、鉢崎関所の中で伊能忠敬さんと役人達が、口ゲンカしたそうです。

 しっかぁしぃ・・ここ「鉢崎」は、そんなケンカ話しの逸話が多い所でんなぁ。(^O^)


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 恥ずかしながら「YouTube」に尺八独奏「手向」を載せており、聞いて頂ければ泣いて喜びます


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