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遍路日 2011.12.4 掲載日 2012.9.14
76番「金剛寺」を出て「番外 藤原寺」へ海に向かって歩いてると、T字路にぶつかり、さてどちらへ行けば良いのか?
丁度そこに新しい遍路石が有り、その矢印はT字路を突き切った、更に海に向かって下りる坂道を指し示しています。
よっぽどこの標識を信じて行こうかと5歩ほど進んだのですが、どおしても引っ掛かるのですねぇ。
地図で確認すると、その方向へ行けば海際である「屋形崎鼻」方向の県道に出ちまって、番外「藤原寺」へ行くには、どおみても遠回りになるのです。
ここは今までの遍路経験とヤマ勘で標識を無視して、番外「藤原寺」が有る方向へT字路を右に行きました。
住宅が有る狭い道を行くと、民家の出入り口庇に鶏の彫刻が飾ってあり、これがまた、なかなか見事な作品で、とてもシロウトが作ったとは思えなく、ここら付近は、こおいう彫刻を飾るのが風習なのかな?それとも、この家だけ?
狭い道を行くと突き当たりのカーブミラーに遍路標識が有り、やっぱり勘を信じてよかったなぁ~。 !(^^)!、 しかし、こおなると先程の遍路石は何じゃったのか?、まだ出来たての新しい標識石のようだったけれど、こんな事があるとあんまり遍路石も信じられん。
少し行くと、今度は農道へ行くように立て札標識が有り、その先は一直線に近い狭い道を、車道をショートカットしながら一気に麓の車道まで下り、うん、やっぱり遍路道は、こんな風に近道になってなければアカンわなぁ。
途中、道が交差する車道の所で一瞬迷いましたが、石仏の脇に細い道が続いており、その近くの電柱に、これまた久しぶりに見た四国でおなじみの「矢印 遍路マーク」が貼ってあり、細い道を行くように示していました。
たぶん四国で歩き遍路を経験者した人が貼ってくれたのじゃろなぁ。これを見て、改めて四国との強い繋がりを感じました。
小豆島全体を歩き巡ってから振り返ってみますと、遍路札や標識も有る事だし、四国で歩き遍路を経験した人ならば、これらを頼りにすれば、それほど迷わずに小豆島は歩き通せると思います。
でえじょうぶ、四国と同じような感じで遍路札・遍路マークが有り、それでも遍路札やマークを見つけられなかった場合は・・・そりゃあぁ~・・あぁたぁ・・そこで五体投地して泣くマネをするとか・・・それでもアカン時は、最後の手段として、今までの四国遍路で鍛えた勘を信じなせぇ。(^O^) ヘッヘッヘッ・・
で・・麓の車道に降り立ったんだけど遍路マークが見当たりまへん。
ホントは、ここで五体投地をして涙の一粒でも落とせば奇跡が生じるのでしょうが、代わりに地図を確認し、番外「藤原寺」の場所は、地図からだいたい想像できます。
その方向へ向かって、よっぽど目の前に有る農道を突っ切ろおかと思いましたが、最後まで農道が有るのかわかりまへん。
ここは一つ安全策として車道を歩いて行くと、学校プール近くの道を行くように標識が有りました。
小豆島88箇所霊場の番外札所「藤原寺」は、大きい白い壁塀の構えがあり、それを見て有人の寺かと思いましたが無人でした。
戸が開いたので、玄関内で参拝すると囲まれた構造上からなのか尺八の響きは良かった。
蝋燭立てのガラス戸に、お札がワンサと貼ってあり、その中にB5サイズの古い紙に軍艦の写真が貼ってあります。
「散る桜 残る桜も 散る桜
南太平洋に眠る我が艦最上と我が友よ
吾命ある限り鎮魂の祈り捧げん」
帰って軍艦「最上」の事を調べてみると戦艦かと思ったら重巡だったのですねぇ。
この重巡「最上」の鎮魂札を貼った人は、どの作戦に従事したのかわかりませんが、遠く愛知県からわざわざ来たよおです。
わかるなぁ・・「船板一枚下は地獄の底」と言われ、生き死には一緒という仲間意識が強いのが船乗り精神です。
σ(*_*)も船に1年半ほど乗ってた事がありますが、たったそれだけのわずかな期間でしたが、今でも当時の船乗り時代を、どうしょうもなく懐かしく思ってます。
この重巡「最上」の鎮魂札を貼った人は、今も存命なのでしょうか?、小豆島88箇所の札所寺を巡りましたが、この札が貼ってあったのは藤原寺だけでした。
他の札所寺では古くなったので、剥がされたのか・・・・
それとも、小豆島88箇所霊場の番外であるこの藤原寺だけに、特別の思い入れが有ったのか・・・わかりません。
恥ずかしながら「YouTube」に尺八独奏「奥州薩慈」を載せており、聞いて頂ければ泣いて喜びます。
当「遍照の響き」ホームページに掲載されている写真がで販売されています。
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