HOME > 紀行文「目次」 > イザベラ・バードの道「地図と目次」(関東・東北編)> 21 栃久保新道
旅行日 2015.8.20 掲載日 2016.1.3
昼頃には雨も小降りとなり、私は徒歩で藤原を出発した。
私はアメリカ「山岳服」とウェリントン靴をはいたが、この国で婦人が徒歩旅行や駄馬による旅行をするには、この服装に限るのである。
それから軽い笠を肩にかぶさるほど深くかぶり・・踝(くるぶし)までぬかる泥道をとぼとぼと歩いた。やがて雨も晴れ上がり、霧の中から山々が見えてきた。
高梨健吉「イザベラ・バード 日本奥地紀行」より
「藤原」でノミの大群に襲われたイザベラ・バードは、睡眠不足で雨の中を出発したようです。
ところで「栃久保新道」というのを、下調べしてた時に初めて知りました。
現在の国道201号線は「会津西街道」とも呼ばれていますが、江戸時代の「会津西街道」は、「藤原」から「もみじライン」方向の山中へ入った「高原峠」を越えて「五十里」へ行ったそうです。
その「高原峠越え」は雪崩等が有るので、1863年にこの「栃久保新道」として新しい道が造られました。
イザベラ・バードは、「栃久保新道」完成の15年後に来ていますので、現在の国道201号線とほぼ同じ「栃久保新道」を通ったと思います。
水かさを増した鬼怒川は下の方で大きな音を立てていた。
とうとう私は駄馬に乗り、高田山の突出部を越えた。
高梨健吉「イザベラ・バード 日本奥地紀行」より
この「高田山の突出部」の場所を地図で探しても、どうしてもわからんかった。
地図を見ると、なんとなく「小網トンネル」の所が鬼怒川に突出しており、ここかなぁ・・と思うが、バス停名は「白岩」となってます。
このトンネルと、次の「三ツ岩トンネル」の脇に旧国道があますが、どちらも途中で途切れて行けないらしい。
後日、中禅寺湖と竜王峡を歩く予定にしており、その時に旧国道を通るので行きませんでしたが、その年の9月11日に鬼怒川の大決壊があり、後日、龍王峡へ行ってみると土砂災害で通れず、あちゃあぁぁ・・・行っておけば、良かったなぁ。
川治温泉駅付近まで来ると、雨がパラついてきたので、駅で雨具を着ましたが、イザベラ・バードは雨が止んで良かったね。
峠は2100フィートの高さで、よく工夫されたジクザク道が通っていた。
上からは、八重の山道が曲がりくねっているのを一望のもとに見下ろすことができた。
高梨健吉「イザベラ・バード 日本奥地紀行」より
国道を走ってると道端に石がゴロゴロと置いてあり、看板も有ったので、史跡と思えば、そのように見えるし、そおでなく単なる石置き場と思えばそのようにも見えます。
念のため「チョイノリ」を下りて看板を読んでみると「栃久保新道跡」と書いてあり、その歴史が紹介されてました。
ところで、この付近に「やぼ助峠」という旧道が有ったのですが、上り口を見落としちまい、雨が降ってるので戻って探しませんでした。
地図を見ると、この「栃久保新道跡」の山上付近に旧道が有ったらしく、ネットの写真を見ると、イザベラ・バードが書いてる「ジグザク道」は、この「やぼ助峠」の事を書いてるのでは・・と思う。
国道には「ジクザク道」は無かったので、違ってたら、ごめんね。
「高原」という次の宿場で、荷物を運ぶために馬を一頭やとった。 一軒のさびしい宿屋に着いた。
私が到着すると、きれいな顔をした娘たちの群れはすべて逃げ出したが・・まもなく呼びもどして来た。 この娘達は私を外国の男だと思ったのである。
ここでは食べるものはご飯と卵だけである。 そこで私は18対の黒い眼がじっと私をみつめているところで、ご飯と卵を食べた。
高梨健吉「イザベラ・バード 日本奥地紀行」より
イザベラバードも「高原」で、ジロジロ見られながら、ご飯を食べるのは、タイヘンでしたでしょうなぁ。
「おい・・あの男みたいなゲェジンさん、卵を割りおったでぇ。」 「ワシらと同じ割り方をするなぁ。」
「割った後、それをどうするんじゃろ?。」 「きっと、頭の上にでも乗せるのが外国の風習でねぇかなぁ。
あっ・・見てみぃ・・卵、食べよった・・・すげぇなぁ!!」
とか、何とか思われながら食べてたんでしょう、カワイソーに・・・
「高原」より少し行った川治温泉の橋のたもとに、愛嬌のある頭のハゲたジサマが指差してる像があり、何だろうと思って見ると「かわじい」と書いてあり、河川遊歩道を指差していました。
恥ずかしながら「YouTube」に尺八二重奏「アブェ・マリア」を載せており、聞いて頂ければ泣いて喜びます。
当「遍照の響き」ホームページに掲載されている写真がで販売されています。
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