HOME > 紀行文「目次」 > イザベラ・バードの道「地図と目次」(関東・東北編) 29 中山峠
旅行日 2015.8.21 掲載日 2016.1.20
下野街道「倉谷」集落の山側に、道からは見えませんが「楢原小学校・栄富分校」という木造校舎があり、すぐ近くの「水抜」集落は、昔ながらの街道筋を偲ばせる街並みです。
「水抜」集落の途中より下野街道へ上がる道が有るはずだが・・と、トロトロと走ってると、山側へ上がる狭い道に石仏がチラッと見えました。
たいてい石仏が有る・・と言う事は、昔の街道だった箇所に設置されているので行ってみると、だいぶペンキが剥げた「下野街道」の標識が有りました。
しかし・・そこからの坂道は、かなり急坂で、コンジョナシの「チョイノリ」は「ヒーコラ・・」言いながらノロノロと上って行き、こいつが、もおちっとコンジョが有ったらなぁ・・
イザベラ・バード達も、この坂を「ヒーコラ・・」言いながら上った事でしょう。
ちなみに、「長野の渡し」から「大内宿」までの間は「日本奥地紀行」に記載されていません。
当時は記録写真を撮れるわけでも無く、数日後に記憶だけを頼りに書いてたのですから、一々細かい集落や峠なんかの出来事は忘れっちまい、よっぽど記憶に残る出来事しか書けなかったのでしょう。
σ(*_*)が数ヶ月たっても、これを書けるのは、写真を見れば当時の事を想い出せるからで、写真が無く地図の記憶だけならば、記事の1/10も書けないと思う。
坂道を、だいたい上ると杉林になり、やがて車道と合流します。
車道を横切るように下野街道の続きらしい草むらがありましたが、そのまま車道を走ると、やがていかにも昔の街道沿いに生えてそうな松が有り、側には下野街道らしい道も有ります。
行ってみると「中山峠石塔群」の看板があり、やっぱり下野街道でした。
「石塔群」と名付いているから、石塔がゴロゴロしてるのかと思えば、そおでもなく、木の根付近に2・3個しか見当たりません。
ここもそうですが、これから先の下野街道の出入り口には全体的に草刈りがしてあり、説明案内標識も設置されており歩けるようです。
再び車道を走ると「長寿の水」へ来ました。
「御蔵入33観音巡り」の時に寄り道して、ここを通った時は、それなりに車が停まっていましたが、あの時は、まさかもう一度ここへ来るとは思ってもいなかった。
下野街道の説明看板を読んでみると、伊達政宗とか豊臣秀吉も通った歴史の有る道らしい。
屋根付き「水飲み場」のパイプからは、かなりの水量の水が流れており、高倉山の湧き水だそうで、きっとイザベラ・バードも、この水を飲んだでしょうなぁ。
その時には「長寿の水」なんて言う、アリガタイ名前が付いてなく、名も無い湧き水だったかもしれんが・・・
再び車道を、トロトロ・・と走り・・・「中山」集落に来ました。
道端には「木造校舎・廃校巡り」の時に来た「楢原小学校・中山分校」の側に「中倉一里塚跡」があり、校舎跡を見た瞬間、あぁぁ・・ここへも来たなぁと想い出しました。
もう一回言うけど、まさかもう一度ここへ来るとは思わなかった。しかも「チョイノリ」で・・(^O^)
少し行くと道端に大木が生えており「八幡(中山)のケヤキ」で、云われは八幡太郎義家が植えたらしい。
かなり目立つ大木なので、イザベラ・バードも、たぶん「おぉぉ・・・!!」と思って見たのではないかな。
「大内宿」へ向かってると途中の道端に、所々で「下野街道」の出入り口が有りました。
出入り口の様子を見ると草も刈ってあり、「チョイノリ」で走れたかなぁ・・とも思ったのですが、内部の様子もがわからず、その心構えが出来て無いのでヤンピしました。
恥ずかしながら「YouTube」に尺八二重奏「アブェ・マリア」を載せており、聞いて頂ければ泣いて喜びます。
当「遍照の響き」ホームページに掲載されている写真がで販売されています。
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