HOME > 紀行文「目次」 > イザベラ・バードの道「地図と目次」(関東・東北編) > 84 豊 岡
掲載日 2016.7.30 旅行日 2015.7.7
その日の午後の雨と風は、恐ろしいほどであった。
私は馬に乗ることができなかったので、数マイルほどとぼとぼと歩いて行った。
松並木の下を、1フィートも深い水の中を歩いて通った。
高梨健吉「イザベラ・バード 日本奥地紀行」より
「寒城野」で線路にぶつかる所に「羽州街道」の標識が有り、よっしゃぁ・・この高架橋の下が羽州街道だなと思って行くと鉄板を敷いた道になってます。
ん?・・工事でもしてるのかな?と思いながら進むと行き止まりで、地図を見ると、先程の高架橋付近で線路を横切るような道筋になってました。
さよか・・と思い高架橋付近まで戻ったが、線路を横切る道が無く、たぶん昔は有ったのだろうが、踏切も撤去して今は草が生え茂り、その跡さえもわかりません。
ワアァ~ン・・・紛らわしい標識を立てるなぁ・・・(T_T)ゴラアァ゛~・・・泣いてもしかたがないので高架橋に上がり、大部遠回りして線路の向こう側に出ました。
標識を立てるのならば、ついでに「羽州街道は高架橋を渡って向こう側へ行け」とか何とか注意説明が有れば良かったのだが・・
たぶん羽州街道を歩いてる人は、σ(*_*)と同じ間違いをするか、無理矢理に線路を渡って向こう側へ行くかもしれない。
もしσ(*_*)が歩きだったら、絶対に草を掻き分けてでも線路を横断すると思う・・たぶん・・。
油紙の雨外套もずぶ濡れとなり、豊岡に着いたときは、身体中がほとんど水に浸り、とても寒かった。
清潔な二階にあがり、火鉢にあたりながら震えていた。
水の滴る衣服を吊しておいたが、翌日は、それが乾かぬうちに着なければならなかった。
朝の5時までには豊岡の人はみな集まってきて、私が朝食をとっているとき、私は家の外のすべての人々の注目の的となったばかりでなく、土間に立って梯子段から上を見上げている約40人の人々にじろじろと見られていた。
宿の主人が、立ち去ってくれと言うと、彼らは言った。 「こんなすばらしい見世物を自分一人占めにしているのは公平でもないし、隣人らしくもない。
私たちは、二度とまた外国の女を見る機会もなく、一生を終るかもしれないから。」
そこで彼らは、そのまま居すわることができたのである!。
高梨健吉「イザベラ・バード 日本奥地紀行」より
豊岡の宿でもイザベラ・バードは、見世物あつかいだったよぉです。
まぁ・・σ(*_*)でも当時の人間だったら、近所・親戚などお互いに誘い合い、子供の手を引いて口空けながら見に行っただろなぁ。
「豊岡」の道沿いに高い松が有ったので写真を撮ると、「儀右衛門公園」と看板に書いてあり広い公園になってました。
ふうぅ~ん・・と思って、そのまま行きましたが、調べてみると元は旧家が有ったらしく、イザベラ・バードが泊まったかもしれない。
豊岡からの旅は実に厳しかった。
その日の雨はやむことなく、吹きつける霧のために、眼にみえるものは地平線上にぼんやりかすむ低い丘陵、松林のやせ地、雑木林、水の溢れた稲田だけで、
ところどころ道路に沿って村落があり、そこは1フィートの深さの泥沼になっており、そこの人達の着ているものは、特にぼろぼろで汚かった。
高梨健吉「イザベラ・バード 日本奥地紀行」より
豊岡を過ぎた所に羽州街道と「善知鳥(うとう)坂」の標識があり、下調べの時には見つけれなく知らなかった。
通れるかな?と思って見ると階段になっており、「チョイノリ」では無理なので車道を行きました。
しばらく進むと畑の中に石碑が立っており、その前面は花が植えられてキレイにしてあります。
最初は墓かな?と思ったのですが、「霊神??」と書いてあり、下の二文字は欠けているのと学が無いので、よぉ~読めない。
それにしても、普通の石碑ならば、せいぜい花の一輪程度しか供えられてないのだが、前面に花壇まで作っているのは、よほどの云われが有る物かもしれない。 だれか、この石碑について知ってたら教えてね。
恥ずかしながら「YouTube」に尺八独奏「惜別の唄」を載せており、聞いて頂ければ泣いて喜びます。
当「遍照の響き」ホームページに掲載されている写真がで販売されています。
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