HOME > 紀行文「目次」 > 「塩の道」地図と目次 > 26 来 馬
2013.10.31 旅行 2014.4.15 UP
翌朝、「北小谷駅」を出発し、鉄橋の下を潜って姫川に架かる長い「小谷橋」の頭上には、国道148号線の「小谷大橋」が有ります。
姫川沿いの車道を歩き、こんなイナカに車なんか通らないと思ってましたが、けっこうトラックが走ってます。
「来馬」集落の手前に小さい川が有り、後でわかったのですが、常法寺の案内看板図によると、この上流で「恐竜の足跡の化石」が見つかったらしい。
そお言えば、「道の駅 おたり」の施設内には、「恐竜の足跡」のレプリカが飾ってあったが、ここと関連が有ったのは知らんかったなぁ。
そもそも、こんな所に恐竜が大昔に住んでいたとも思わず、それで広場のモニュメントも恐竜の親子だったわけね・・納得。
「来馬」集落へのカーブを曲がった所に「西方堂」が有った・・と言うよりも、最初はわからず、普通の民家かと思った。
地図本に書いてある伝説によれば、佐々成政が「さらさら越え」をした時、白鹿に導かれてここへ来たそうな。
佐々成政が真冬の立山を越えて、太平洋側に居る徳川家康の元へ援軍を頼みに行った「さらさら越え」は史実らしいが、そのルートは今も正確にわからないそおです。
それにまつわる、いろんな伝説が有り、立山越えではなく「親不知」を越え「塩の道」を通ったというのも有り、それも考えられます。
「さらさら越え」をして「来馬」へ来た成政主従が、吹雪の中をこの「西方堂」へ転がり込み、持ってきたカップラーメンに湯をぶっかけて、腹が減っていたので3分待つのも惜しく、鼻水垂らして「フー・・ハー・・」言いながら、すすっていたのかもしれまへんねぇ・・カワイソーに・・・。
常法寺の前に「来馬地区案内図」の看板があり、先程の「恐竜の足跡の化石」の場所を示してます。
また案内図には、明治44年に前の河原で大崩れが有り、「来馬」集落の大部分が無くなった・・と書いてあります。
当時は、役場・学校・郵便局・駐在所も有り、けっこう賑わいの有る大きな集落だったらしく、今は完全に河原となっており、そんな集落が有ったとは想像出来まへん。
テクテク・・と歩き、来馬諏訪社は、なかなか古風な感じがしますが、この先、どれほどの時間が掛かるかわからんので、神社境内へは寄らなかなかった。
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