予定にしてない所だったのですが、多分もう二度とこの付近へは来ない所だし、話しの種にも寄ってみるべぇか・・と行ってみました。
石柱の真ん中を通る車幅の山道が続いており、オッ!!・・それらしい道じゃんと喜んで行くと、やがてお堂が有りました。
けっこう広い境内で、「辻地蔵」のお堂も今までの観音堂と同じような大きさです。
お堂の彫り物も、波を彫刻しとるようで、なかなかええもんだと思う。たぶん、この付近では云われのある有るモンじゃろなぁ・・と思い、帰ってネットで調べると
「会津二十一地蔵尊」の第18番らしい。
その云われには「子供を亡くした人々が詣で、また取子といって子供の無事を祈願し、病気も身代りになってもらい、家内安全、除難等を祈願する」と書いてありました。
うん・・まぁ・・確かに、明るい雰囲気ではなく、どっちかというと木々に囲まれていたためか、陰気な感じがしないでもなかった。
地蔵和讃と水子供養
地蔵と言えば「地蔵和讃」と言うのが有り、「水子供養」を宣伝するには格好のCMソングになっております。
聞きかじりの内容では、幼くして亡くなった子供が河原で石を積んでたら、イジメッコの鬼が来て、せっかく積み上げた石を壊しちまい、そこへ地蔵さんが現れて子供達を助ける・・と思ってました。
「(今まで思ってた)地蔵和讃-その1」
これだけの内容だったら「正義の味方、地蔵さん現れる」の物語ですが、この那須陽を信じて仏教に帰依しようと思うじゃろうか?
そりゃあぁ、水子供養を商売にしとる寺にしてみれば、
「ほれ・・地蔵和讃に書いてあるように、あぁたの亡くした幼い子供達が賽の河原で、こんなカワイソーな目に遭ってまっせえ・・早く供養して、石の地蔵さんを奉納しなされ。
大・中・小の地蔵さんが有ります。
えっ?・・はい、そりゃあぁ・・値段に応じた大きい地蔵さんの方が供養になりますがなぁ。
チッコイ地蔵さんだと、沢山の子供をダッコできないかもしれまへんので・・・
今なら先着100名様に限り、オモチャの風車を特別サービスプレゼント実施期間中です。」
というような事を言うでしょうなぁ。
σ(*_*)はこおいうやり方は、評判の悪い邪宗教がやっとる
「不安に付け込んだ、脅し」の手口と何も変わらんと思う。
そこで、この機会に、ちっとはカシコクなろおと思いましてなぁ。
ネットで「地蔵和讃」を検索し
「(改めて調べた)地蔵和讃-その2」(リンク切れ 2018/4)を見つけました。
「その2」を読んでみると、
「その1」のように子供が単に石を積んで壊されて地蔵さんが現れる・・という単純な絵物語的なモンでは無いようです。
もう一歩踏み込んだ内容が有り、最後に「この地蔵和讚の中には、子を失った父母の深い悲しみの心がにじんでいる。それと共にこの悲しみをあきらめようとする、深い生への知恵がそこに籠もってるのである。」と書いてありました。
そいで、気が付いたのですが、
「その1」と
「その2」では語句の一部が違ってるんですなぁ。
「その1」では
「追善供養の勤めなく」となっており、
「その2」では
「追善供養のその暇に」となっとります。
この
「勤めなく」「そのヒマに」の語句の違いで、その後の解釈が少しばかり違って来ます。
「その2」では、下記「地蔵和讃」の
「親の嘆きは汝らの責め苦を受くる種となる」箇所が、「いつまでも亡くなった幼子の事を思い煩っていると、それがために、あの世で幼子が成仏出来ず苦しんでますよ。諦めなさい」と言ってるように思う。
はい、水子供養の寺が一生懸命に宣伝している事とは、全く逆の解釈ですがなぁ。
ゴメンネ、商売のジャマして、なんせ信心の足りんモンが、やる事ですので・・・(^O^)ダハハハハ・・・
そして、何故か不思議にも水子供養をやっとる寺は、必ず
「その1」の
「勤めなく」語句を使用しており、はいはい・・その理由は書かなくても、よぉ~わかりますがなぁ。(^O^)ケケケ・・・
地蔵和讃は、地域によって語句の一部が違ったり省略されたり、節回しも違ってるよおですので、どれが正しいとは言えないかもしれまへん。
しかし、要はその中身、伝えようとしているモノが「何か?」だと思います。
少なくとも、σ(*_*)は「供養の必要性」を主張するモノは、仏教の精神から外れていると思っており、ホントの仏教とは「今を一生懸命に生きて、自分の心の中に有る仏を見出す事」だと思ってます。
この「辻地蔵」さんの事を調べて、今回はエライ勉強になり、少しカシコクなったような気がする。
下記に長いですが、「地蔵和讃」をコピーしときましたので、ヒマ有れば一読してください。
頭で思ってた聞きかじりより、さすが原文、読めば想像以上に悲哀感が有ります。
水子供養の論文
これを掲載した後、ネットを見ると
「誕生前の「死」?現代日本の水子供養」というホームページがありました。
どこかの大学の修士論文を公開したようで、ちと難しい内容かもしれまへんが、興味の有る人は一読してみてください。
水子供養してる寺へ実際にアンケートし、仏教的立場からその坊さんの考え、供養否定の坊さんの考え、水子の祟りの有無・・・等が、中立的立場で記載してあります。
むしろ一般の人が本当に知りたい事や、各宗派寺の考えや本音が記載してあると言った方が良いかもしれまへん。(H21.1.21追記)
地蔵和讃
帰命頂礼地蔵尊 無仏世界の能化なり
これはこの世のことならず 死出の山路の裾野なる さいの河原の物語
聞くにつけても哀れなり この世に生まれし甲斐もなく 親に先立つありさまは
諸事の哀れをとどめたり 二つや三つや四つ五つ 十にも足らぬおさなごが
さいの河原に集まりて 苦患を受くるぞ悲しけれ
娑婆と違いておさなごの 雨露しのぐ住処さえ 無ければ涙の絶え間無し
河原に明け暮れ野宿して 西に向いて父恋し 東に向いて母恋し
恋し恋しと泣く声は この世の声とは事変わり 悲しさ骨身を通すなり
げに頼みなきみどりごが 昔は親のなさけにて
母の添い寝に幾度の 乳を飲まするのみならず
荒らき風にも当てじとて 綾や錦に身をまとい その慈しみ浅からず
然るに今の有様は 身に一重さえ着物無く 雨の降る日は雨に濡れ
雪降るその日は雪中に 凍えて皆みな悲しめど
娑婆と違いて誰一人 哀れむ人があらずなの
ここに集まるおさなごは 小石小石を持ち運び これにて回向の塔を積む
手足石にて擦れただれ 指より出づる血のしずく からだを朱に染めなして
一重つんでは幼子が 紅葉のような手を合わせ 父上菩提と伏し拝む
二重つんでは手を合わし 母上菩提と回向する
三重つんではふるさとに 残る兄弟我がためと 礼拝回向ぞしおらしや
昼は各々遊べども 日も入相のその頃に 地獄の鬼が現れて
幼き者の側に寄り やれ汝らは何をする 娑婆と思うて甘えるな
ここは冥土の旅なるぞ
娑婆に残りし父母は 今日は初七日、 二七日 四十九日や百箇日
追善供養のその暇に ただ明け暮れに汝らの
形見に残せし手遊びの 太鼓人形風車 着物を見ては泣き嘆き
達者な子供を見るにつけ なぜに我が子は死んだかと
酷や可哀や不憫やと
親の嘆きは汝らの 責め苦を受くる種となる
必ず我を恨むなと 言いつつ金棒振り上げて 積んだる塔を押し崩し
汝らが積むこの塔は ゆがみがちにて見苦しく かくては功徳になりがたし
とくとくこれを積み直し 成仏願えと責めかける
やれ恐ろしと幼子は 南や北や西東 こけつまろびつ逃げ回る
なおも獄卒金棒を 振りかざしつつ無惨にも あまたの幼子睨み付け
既に打たんとするときに 幼子怖さやる瀬無く
その場に座りて手を合わせ 熱き涙を流しつつ 許したまえと伏し拝む
拝めど無慈悲の鬼なれば 取り付く幼子はねのけて 汝ら罪なく思うかよ
母の胎内十月の内 苦痛さまざま生まれ出て
三年五年七歳と わずか一期に先だって
父母に嘆きを掛くること だいいち重き罪ぞかし
娑婆にありしその時に 母の乳房に取りついて
乳の出でざるその時は 責まりて胸を打ち叩く
母はこれを忍べども などて報いの無かるべき
胸を叩くその音は 奈落の底に鳴り響く
父が抱かんとするときに 母を離れず泣く声は 八万地獄に響くなり
父の涙は火の雨と なりてその身に振りかかり
母の涙は氷となりて その身をとずる嘆きこそ
子故の闇の呵責なれ かかる罪とがある故に さいの河原に迷い来て
長き苦患を受くるとぞ 言いつつまたもや打たんとす
やれ恐ろしと幼子が 両手合わせて伏し拝み
許したまえと泣き叫ぶ 鬼はそのまま消え失せる
河原の中に流れあり 娑婆にて嘆く父母の 一念届きて影映れば
のう懐かしの父母や 飢えを救いてたび給えと
乳房を慕いて這い寄れば 影はたちまち消え失せて
水は炎と燃え上がり その身を焦がして倒れつつ 絶え入ることは数知れず
峰の嵐が聞こえれば 父かと思うて馳せ上がり 辺りを見れども父は来ず
谷の流れの音すれば 母が呼ぶかと喜びて こけつまろびつ馳せ下り
辺りを見れども母は無く 走り回りし甲斐もなく
西や東に駆け回り 石や木の根につまづきて
手足を血潮に染めながら 幼子哀れな声をあげ
もう父上はおわさぬか のう懐かしや母上と
この世の親を冥土より 慕い焦がれる不憫さよ
泣く泣くその場に打ち倒れ 砂をひとねの石まくら
泣く泣く寝入る不憫さよ されども河原のことなれば
さよ吹く風が身にしみて まちもや一度目をさまし
父上なつかし母ゆかし ここやかしこと泣き歩く
折しも西の谷間より 能化の地蔵大菩薩
右に如意宝の玉を持ち 左に錫杖つきたまい
ゆるぎ出てさせたまいつつ 幼き者のそばにより
何を嘆くかみどりごよ 汝ら命短かくて 冥土の旅に来るなり
娑婆と冥土はほど遠し いつまで親を慕うとぞ 娑婆の親には会えぬとぞ
今日より後は我をこそ 冥土の親と思うべし
幼き者を御衣の 袖やたもとに抱き入れて 哀れみたまうぞ有難や
いまだ歩まぬみどりごも 錫杖の柄に取り付かせ
忍辱慈悲の御肌に 泣く幼子も抱き上げ
なでさすりては地蔵尊 熱き恵みの御涙
袈裟や衣にしたりつつ 助けたまうぞ有難や
大慈大悲の深きとて 地蔵菩薩にしくはなく
これを思えば皆人よ 子を先立てし人々は 悲しく思えば西へ行き
残る我が身も今しばし 命の終るその時は
同じはちすのうてなにて 導き給え地蔵尊 両手を合して願うなり
南無大悲の地蔵尊 南無阿弥陀仏阿弥陀仏
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恥ずかしながら「YouTube」に尺八独奏「手向」を載せており、聞いて頂ければ泣いて喜びます
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