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    H17.7.16 UP    尺八


三か所存在する「越後・明暗寺」跡地関係 

「越後・明暗寺」跡の関係地

 「越後明暗寺」・・やっぱし名前だけは知ってる人は知っており、知らん人は「何それ? ご利益が、たんまり有るの寺なの?」という寺を探訪しました。

 まずはネットで検索して所在地の確認すると何でかわかりまへんが、「村松町」「下田村」「長岡市・正林寺」と3箇所も跡地というか関係地が有るんですなぁ。

 それぞれの場所が、どのような繋がりが有るのか、さっぱりわからず、地図で場所の確認できたのが「長岡市・正林寺」だけ。

 下田村へ事情を書いたメールで問い合わせると、「わかりにくいでしょうから」と丁寧に「越後・明暗寺」跡地の地図を添付して頂きました。ありがとさんです。

 村松町については、村松町のどの付近かという場所・方角・地名等、何一つわかりまへんでした。

 まぁ、行けば何か看板に書いてあって、何かわかるかもしれんと思って車を走らせました。

長岡市「正林寺」

 先ずは長岡市に在る「正林寺」へ向かったのですが、この寺と「越後・明暗寺」との関係がわからんのに、さらに輪をかけたように、この「正林寺」の場所もわかりにくい。「越後・明暗寺」の本堂を持って来た「正林寺」

 その付近に着いた時、道端に在るJAで場所を尋ねると、金を預けに来たのか引き出しに来たのかわからんオババが「歩いたら5分、車なら2分やねぇ」

 そんな事を聞いてんじゃねぇんだけどなぁ、道順を知りたいんじゃけど・・・と思ってると、側に居たトッツアンが「もおチョット待ってたら、連れて行ってあげる」と親切に言ってくれ、その車の後を付いて行ってやっとわかりました。

 「正林寺」周囲の樹木が伐採されており、えらいアッサリした感じの小さい寺で、何か云われを書いた物が無いかと探しましたが、何もありまへん。

 普通、虚無僧関係は禅宗関係なのですが、この寺は浄土真宗なので、珍しいなあ。正林寺の本堂は元「越後・明暗寺」の本堂だった。

 寺の裏の墓場になっており、そこまで見て周りましたが虚無僧関係の物は無く、あきらめて次の下田村へ行きました。

 帰ってから「正林寺」に電話して、住職さんに越後明暗寺との関係を聞いてみると、やっぱしそおいう問い合わせが余計有るらしく、まず下田村の明暗寺の事を知ってるかと聞かれた後

 「明治の廃仏毀釈の時に下田村に在った明暗寺が取り壊されたが、その際、明暗寺の本堂をそのまま解体し当寺の本堂として移された」との事です。

 はらあぁ~・・正林寺の本堂は元「越後明暗寺」の本堂だったのね。

 ネットで調べた時も本堂の写真しか載ってなかったもんだから、マネして本堂だけ撮ってきたけど、それならそおと、もおチョット、じっくり見ておけば良かった。

下田村中野原

   「越後・明暗寺」・下田村     「越後・明暗寺」・碑と説明看板・下田村
 下田村へは、山を越え、越後平野のタンボの中を突っ切り・・・地図によるとこの辺だろおなぁ・・・と思った所の車道端に、大きな木と付近に墓があり、まさかあれでは?・・・と思ってみたら、はい、そのまさかでした。

 ちなみに「下田」は「しもだ」ではなく、「しただ」と読みます。

 大きな木の下に石碑が建っており、その後ろには字が剥げて読みにくい看板があり、その読みにくい看板を無理して読み砕くと、おおかた次のように書いてありました。虚無僧の碑・「越後・明暗寺」・下田村

「秀峰山 明暗寺跡

 中野原部落の一角に北陸道で唯一の虚無僧の明暗寺があった。
 そいで、徳川家康からお墨付きをもらった代わりに、徳川幕府の隠密となった。

 徳川幕府直轄寺であった明暗寺は、最初、村松町中名沢にあったが、元禄の始めに火災にあい、九代目の庵主が、この下田に寺を再建した。

 再建された寺は広大な敷地で、水堀・土塀を築いてあった。
 庵主は立派な籠に乗り、大名の行列と出会っても、「ワシは明暗寺じゃ」と言って籠から降りなくてもよかった。 」

 何で越後明暗寺が、下田村と村松町に分かれてたのか、よぉ~わからんかったが、この読みにくい看板を見てやっとわかりました。

 石碑から少し離れた所に小さい作業小屋のような建物が有り、その小屋の中に歴代庵主の墓があります。「越後・明暗寺」の堂(墓)・下田村

 この小屋の屋根に宝珠が無かったら、たぶん、そこらのタンボの農作業道具の置き場と思い、見もしないで行っちゃったろおなぁ。

 お堂には宝珠が載っかってるというのは、遍路していた経験上からわかってたから良かったど、普通の人はわかるかなぁ・・・

 しかも、あぁたぁ・・・入口に看板が掛かっているなら、もう少し分かり易いんだけど、入口を通り越したタンボの畦道を歩いて振り返った所に「秀峰山明暗寺の墓」と看板が掛かってたんです。

 そおなると入口方面から見てもわからず、気の短い人で草が生い茂ってる時に来ちまうと、ヘビでも出るんじゃないかと恐れをなして「あら、何も無いのね」と回れ右して帰っちゃうかもしれまへん。

 幸い、σ(*_*)は気が長くて、ヒマな人間だったから良かったけど・・・・。
    「越後・明暗寺」堂内・下田村           「越後・明暗寺」堂内の墓・下田村
 墓の小屋には鍵がかかっておらず、ガラス戸を開けて入らせてもらいました。

 堂内には、おそらく当時の寺の表札だったと思われる古い看板と尺八指南の看板が置いてありました。「越後・明暗寺」看板、下田村「越後・明暗寺」看板・下田村

  「越後国蒲原郡中野原 普化宗秀峰山 明暗寺」
  「越後明暗流 尺八指南 ○川○翁 (○字不明)」
                   ↑
 「英龍」様より次の通り御教示を頂きました。
 ありがとうございます。(H19.2.3)

  (○字不明)」は「斉川梅翁」師で、「越後三谷」の伝習者です。
  とは言っても「奥州系」の曲らしいですが…。
  昭和38年当時で94歳でお元気に吹奏されていたそうです。


 壁にノートが掛かっており開いて見ると、新潟県内の人がほとんどで、その人達も尺八をやってる人達でしょう。

 そして、おぉぉ・・・さすが、その道のプロの人が遠方より何人か訪れておりまんなぁ。記念ノート「越後・明暗寺」・下田村

 このノートは、昭和60年代から始まっており、すでに10数年たっているにしては、余り訪れる人がいないような気もします。

 虚無僧関係に興味が有る人の絶対数が少ないからかもしれまへんが、それでもσ(*_*)が来た前の人は、2日前に訪れていました。

 ここで献奏した人も居るようで、関係曲である「下田三谷」「越後三谷」とか「阿字観」という曲名も書いてあります・・σ(*_*)は尺八持ってこなかったのでしなかったけど・・・

 読みにくい看板のおかげで明暗寺が最初に在った場所は「村松町中名沢」というのがわかり、地図で調べて場所を確認・・ケチな人間なので、まだ車にカーナビは付けてまへん。(^O^)

村松町中名沢

 国道290号線の山中をひたすら走り・・・越後・明暗寺を再建するにしても、何を思って、こんなに遠く離れた場所へ再建したのかと思いながら走りました。

 ネットで調べた時も、この場所は「中名沢」バス停しか写ってません。

 そおいう事なら、たぶん石碑も説明看板も無いだろおと予想しながら行くと、やっぱし、それらしい跡は何も見当たらず、σ(*_*)もバス停付近の写真を撮すだけで終わりました。

 下田村の場所もそおでしたが、この村松町の場所も周りは広々とした田が広がっているノドカな場所でした。

      「越後・明暗寺」・中名沢   「越後・明暗寺」・中名沢バス停

「越後・明暗寺」関連リンク

 「越後 明暗寺」場所地図は、「三条市教育委員会」>「生涯学習へようこそ」>「下田町の文化財」>「秀峰山 明暗寺」に記載されています。 

 「遍照の響き」「越後三十三観音霊場記」「150明暗寺跡(中名沢)」  (H23.6.1)
               〃       「158越後明暗寺跡(下田)」  (H23.6.25)

  「三条市教育委員会 秀峰山明暗寺跡」(PDF)  (H23.6.1)  


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 恥ずかしながら「YouTube」に尺八曲「手向」を載せており、

聞いて頂ければ泣いて喜びます。

 当「遍照の響き」ホームページに掲載されている写真がpixtaで販売されています。


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