HOME > 紀行文「目次」 > イザベラ・バードの道「地図と目次」(関東・東北編) > 35 束松峠
旅行日 2015.8.23 掲載日 2016.2.5
「片門」バス停を出発して車道を歩いてると、道端に看板があり「束松事件跡」と書いてありますが、そんな事件あったの?・・知らんかったでぇ・・説明書きを読むと・・
戊辰戦争で負けた会津へ、役人として来た元越前藩士が、敗れた会津藩士や市民達をバカにしたような態度を取っていたので、日頃から恨みを買ってたようです。
その役人が任期が終わって故郷へ帰る時に、この場所で元会津藩士に待ち伏せされて、斬り殺された場所らしいでんなぁ。
いかに勝者側の人間であっても、それを笠に着て、好き勝手な事を言ってバカにしたり、意地悪をしておれば、そりゃあぁ恨み・憎しみも買うでしょう。
まぁ・・こおいう人間は、時代が移り変わった平成の現代になっても、あぁたぁの身近な側に居ると思い、本人は気付かなくとも、いつかは何らかの形でその報いが来ると思う。
イザベラ・バードが、この「束松事件」が有った場所を通ったのは、事件から9年過ぎていますが、その時はこんな説明看板は立っていなかったと思う・・たぶん。
そりゃあぁ~・・新政府だって、こんな事は、公にしたくないもんねぇ・・なんせ、民主党政権のように、ウソこいてでも日本国民を思ってるフリをしなければアカンのだから。
「天屋・本名」集落を通り、ここにも説明看板があり、歩き進んでいる道の右側が「天屋」、左側が「本名」集落で行政区も違ってるらしく、道を隔てて違う集落が有るのも珍しいでんなぁ。
古い写真も貼ってあり、さすがに茅葺きではないが、古い宿場街の雰囲気を良く残している集落でした。
「天屋・本名」集落の坂を上りきると、道が二手に分かれており、どっちの道じゃろ?
杭が有ったので束松峠の方向が書いてあるのかと思って、喜んで見に行ったら、単なる「車両進入禁止」の杭だった・・チエッ・・。
それにしても、弱ったなぁ・・道筋から言えば、今通って来た車道をそのまま進む右側であり、左の道は草が刈ってあるが、あんまり旧道らしい雰囲気では無い。
ここで間違って進むと、ドエレエ目に遭うので、すぐ近くにある民家へ行き、留守でなければ良いんだが・・と思いながらピンポ~ンを押しました。
幸い家からジサマが出てきたので、玄関先で雨具から雫がしたたり落としながら 「束松峠へ行きたいのですが、すぐそこの道が二手に分かれており、どちらの道へ行けば良いのでしょうか?」
「あぁぁ・・束松峠なら左の道を行けば良い。 あん?・・・右の道・・あれは、途中で行き止まりじゃよ。
左の道を進み、途中で「あれっ?・・」と思う所があっても、とにかく真っ直ぐ行けば束松峠へ行くよ。
雨の中を、ごくろうさん。」と親切に教えてくれました。
草が生えてますが、道幅広く刈ってあるので、道はわかりやすく、少し上がると広場のようになっており「峠の六地蔵」や鳥居があり「配達夫 峠の雪を 語りけり」の俳句杭まで立ってます。
少し行くと林道から分かれる山道方向に「旧越後街道入口」の大きな杭標識が有ります。
麓のジサマから聞いた「あれっ・・?」と思う箇所の事かなぁ・・とも思いましたが、「越後街道入口」と、わざわざ書いて有るので、大丈夫だろおと思い山道を行きました。
近くに「峠路の 雨はつめたし 朴の花」の句杭もあり、近在には俳句をたしなむ風流な人が居たよおですが、しかしホンマに雨は、冷たいでんなぁ・・。
山道は思ったより幅広で、キレイに自然のまま整備されており、さすが越後街道・・
下草が生えてる所では、石畳の片鱗が、わずかに見えます。
やがて道の突き当たりに錆びた看板・・と思ったら、茶色に縁取りした看板だった。
「地辷り点」と題して、大正時代にここから先の「一里塚」付近まで地滑りが有ったらしく「本名八百刈の地辷り」と言われてるらしく、イザベラ・バードは、地滑り前の旧越後街道を通ったよおです。
地滑り地点から道が細くなり、鉄塔付近に「一里塚」が有り、ベンチも有ったので、ホンマはここで一休みしたかったが、なんせ雨が降っているので、少し先の木陰で休息しました。
気持ちの良い越後街道を行くと、やがて「束松洞門」への説明標識があり、昔は、この越後街道は険しかったらしい・・歩いて来た感想では、それほどでもなかったが・・・
なもんで明治政府になった時、裏街道が計画されて藤峠経由になっちゃいました。
今まで歩いてきた「舟渡」「片門」「天屋本名」の宿場街の衆達は、交通が無くなり生活に困るようになり、なんとか険しい箇所を避けるように村の衆達が洞門を掘って完成させました。
しかしそれが、あぁたぁ~・・・鉄道が出来たもんだから、せっかく作った洞門が交通が少なくなり、洞門の崩落も有って現在は通れないそおです。
イザベラ・バードが、この付近を通ったのは、裏街道が計画されていた頃なのですが、イザベラ・バードは計画を知ってたのかな?・・知らんかっただろなぁ。
話しの種に洞門へ寄ってみたかったのですが、雨が降っているのでヤンピしました。
途中に「子束松跡」があり、その付近に木の腐りかかったのが転がっており、それが名の有る松の末路だったのでしょうか。
それならそうと「これは枯れちゃった松の残骸です」とでも書いてあれば「はりゃあぁ~・・!!」と感嘆の声の一つも上げただろうに・・。
やがて高台の広場に東屋が見え、束松峠に到着。
束松峠の説明看板には、昔の茶屋の写真が貼ってあり、テレビなどで見る茶屋の印象とはずいぶん違い、説明看板が無かったら、どう見ても普通の農家だと思っちゃう。
テレビなどで良く見る「お休み処」の旗や縁台も無いしぃ・・茶店ババアやシジイとか、ネエチャの「休んでいきませんかぁ~」の呼び込み姿も居ないしぃ・・。
ちなみにイザベラ・バードは、この束松峠の事については何も記載していませんが、たぶんこの茶店で休んだと思う。
・・・こんどは山岳地帯にぶつかった。 その連山は果てしなく続き、山を超えるたびに視界は壮大なものとなってきた。
高梨健吉「イザベラ・バード 日本奥地紀行」より
束松峠からの展望は良く(一番上の写真)、東屋の休息所ベンチで貧しい昼食を食べました。
恥ずかしながら「YouTube」に尺八二重奏「アブェ・マリア」を載せており、聞いて頂ければ泣いて喜びます。
当「遍照の響き」ホームページに掲載されている写真がで販売されています。
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