HOME > 紀行文「目次」 > イザベラ・バードの道「地図と目次」(関東・東北編) > 52 大里峠
旅行日 2015.6.10 掲載日 2016.3.23
十三峠の一つである「大里峠」の杭標識が有った所より少し行くと、越後屋が待っており「猿が集団でいた。一緒に行こう」と言い、ワタシャ、あぁたぁの方がオトロシイ。
まぁ・・確かに猿の集団に囲まれたら、オトロシイですわなぁ。
幸い逃げてくれたから良かったが、立ち止まって集団で威嚇されたら、そりゃあぁ・・・オトロシイですから・・。
σ(*_*)は近眼と乱視で、よぉ~見えなかったが、そこらの草むらとか林の中に、あちこちに集団でいるらしく、先程休んだ所などの道端に、獣のウンコが一杯落ちてたのは、どうも猿のウンコらしい。
ちなみに、この十三峠の一つである「大里峠」は、「おおさと」と読むのかと思ってたが「おおり」と読むそうです。
杉林の中を舗装道路の林道で、なかなかウッソウとしているが、手入れをしているためか明るく続いており、静寂な感じがして、なかなか良い。
ここら辺は杉林なので、猿もエサが無いためか気配は感じられなかった。
途中に祠が二つ有ったが、何を奉ってあるのか、わからん。
道端に木に覆われたコンクリの塊のような物があり、「畑銅山」跡の説明看板があり、この看板が無かったら、セメント会社の廃墟物かと思ったかもしれない。
「関川村 観光資源」によると、1801年(イザベラ・バードが通る約80年ほど前)には、ここに「畑」村があり3軒の家で16人が住んでおり、明治7年に畑銅鉱が発見され活況を帯びたが、昭和20年に廃坑となったようです。
イザベラ・バードは、畑銅山が発見されてから4年後に、ここを通っているのですがその記述は無く、その頃には銅山関係で住んでいる人達も多かった事でしょう。
やっと駐車場の広場に着き一休み。
駐車場・広場からは、そのまま林道が山へ向かって続いており、「大里峠入口」の看板も立っているので、林道を行くのかな・・と思ったが、看板脇にも細い道があり、その奥にも看板が見えます。
見に行くと「大里峠 →」の看板で、細い道の方が大里峠へ行く道で、確認しなかったら林道の方へ行っちまうところで、これは看板の設置位置が悪いような気がする。
森林が立ちふさいでいる峡谷によって深い割れ目がつくられていた。
高梨健吉「イザベラ・バード 日本奥地紀行」より
大里峠への山道は所々で谷に沿っており、途中では谷に一度下りて、再び上がる所にはロープが設置されており、それに掴まりながら上がる箇所がありました。
そりゃあぁ・・イザベラ・バードも、馬から転がり落ちるような事もあったでしょうよ。
「柄目木」の看板が有る所で、昔は茶屋があったと書いてあります。
ふうぅ~ん・・と思いながら読み、ふと足下を見ると杉枯葉の中にメダルが落ちてるのを見つけました。
だれじゃ・・こんな所にゲーム用のメダルを落としちゃってぇ・・と思いながら拾ってみると、ゲッ!!・・100円玉じゃねぇか。
あわてて、まだ付近に落ちてないかと、そこらを探したがこの1枚だけでした。
交番も無いしぃ・・・オマワリさんも通らないしぃ・・・他にだれも見ている人が居ないしぃ・・まぁ、いいや・・と思って「ポッケ・ナイナイ」しときました。
少し行くと開けた所に出て大里峠頂上に着き、「大里大明神」の小屋前で一休みし、この頃から空が少し晴れて来ました。
「大里大明神」の戸は開かないので、ガラス戸越しに中を拝見すると、地蔵さんらしいのが数体と奉納札が掛かっています。
大里峠の伝説看板があり、一口でいうならば「大蛇の味噌漬けを食べた女が、大蛇に変身しちまった・・」というような話しであり、関川村HP「大里峠」に詳しい伝説が掲載されてました。
で・・大蛇に変身した女の人の名前が「おりの」と言うらしく、そこから「大里(おおり)峠」と言う名前になったのではないかな?。
関川村ではこの大蛇伝説に基づいて、ギネスブックにも認定された「大したもん蛇まつり」を開催しており、動画を見ると、ホンマに大蛇が動いてるように見えます。
恥ずかしながら「YouTube」に尺八独奏「惜別の唄」を載せており、聞いて頂ければ泣いて喜びます。
当「遍照の響き」ホームページに掲載されている写真がで販売されています。
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