HOME > 紀行文「目次」 > イザベラ・バードの道「地図と目次」(関東・東北編) > 80 神宮寺浜跡
掲載日 2016.7.12 旅行日 2015.7.5
いつものように、私が先頭になって、非常に狭い道路を進んでゆくと、囚人を縄で連行してくる男と、その後ろについてくる警官に出会った。
私の車夫は、警官の姿を見ると、すぐさま土下座して頭を下げた。彼は同時に横棒のところに置いてある着物を慌てて着ようとした。
また人力車を後ろで曳いていた若い男たちも、私の後ろに屈んで急いで着物をつけようとしていた。 その日はたいそう暑かったので、私は彼のために取りなしてやった。
しかし道路を曲がって、警官の姿が見えなくなると、二人の若い車夫はたちまち着物を放り出し、大声で笑いながら、梶棒をとり全速力で駆けだしたのである。
高梨健吉「イザベラ・バード 日本奥地紀行」より
イザベラ・バードが記載している場所は、「大曲」なのかどこかわかりまへんが、警官が居たというので、それなりの大きい街だと思います。
広域農道から、どうなるかと思って来た大仙市内も、間違わずに大曲駅に着いたので駅舎で一休み。
「大曲の梵天」という物が飾ってありましたが、これをどのように使うのか、よぉ~わからん。
チッコイ神社が有り、フウゥ~ン・・と思って通り過ぎようと思ったのですが、白杭の説明標識が有り、そこにチラッと「亡霊」という時が見えました。
へえぇぇ・・神社に亡霊とは、これまた奇妙な取り合わせじゃのぅ・・さぞかしカワイソーな云われが有るのだろおと思い「チョイノリ」を止めて見に行きました。
「三本杉と亡霊塔」と書いてあり、横に説明書きが書いてあるが、カスレていてよぉ~読めん。 この神社に亡霊でも出るんじゃろうか?
これを書いてる時に調べると、江戸時代に津軽藩主が川を渡った時に人足が賃上げ要求したらしく、 怒った津軽藩主が「人足にタカラレた」と、管轄している藩主にモンク~付けると人足が打ち首になったらしいです。
それ以後、津軽藩主が川を渡るたびに荒れるので供養塔を作ったらしい。
神宮寺に着くと、私は疲れて、それ以上進めなかった。
低くて暗く、悪臭のする部屋しか見つからず、そこは汚い障子で仕切ってあるだけで、ここで日曜日を過ごすのかと思うと憂鬱であった。
日曜日の朝5時に外側の格子に3人が顔を押しつけているのを見た。
夕方までには障子は指穴だらけとなり、それぞれの穴からうす黒い眼が見えた。
9時ごろ眼を閉じると、足をひきずって歩く音やささやき声でざわざわし、しばらく続くので、眼を上げたところ、向かい側に約40人の男女と子供達が、顔を灯火に照らされながら、みな私の姿をじっと見ていた。
彼らは、廊下の隣の障子を3枚、音もなく取り去っていたのである。
高梨健吉「イザベラ・バード 日本奥地紀行」より
「神宮寺」集落に着くと、道端に「自由の女神」像と機雷!!・・かと思ったら「大曲の花火玉」が飾ってあったが、なんでここに「自由の女神」像が有るんじゃろ。
神宮寺駅へ行き、オバチャン駅員が居たので「神宮寺浜跡」を聞いたが知らず、地元だから「イザベラ・バード」という名前は知ってるだろおと思ったが、さっぱり知らず「だれ?それ?」という感じで「役場へ行って聞いた方がよい」と言われた。
役場へ行って観光課のネーチャンに同じことを聞くと「先日も千葉(だったかな?)から来た人が新宮寺浜跡の「渡し場」を聞いて来た。イザベラ・バードって、そんなに有名なんですか?。」と、ネーチャンもイザベラ・バードを知らないらしい。
地元なのだから、学校の歴史で教わらなかったのかなぁ・・もっとも、40人ほどジロジロ覗いてたのだから、あんまり自慢できる事ではなく、できればそんな不名誉なことは抹殺したいかもしれん。
「千葉の人が「神宮寺浜跡」まで行ったが杭しかなかった。
イザベラ・バードはここから秋田まで舟で行った有名なのだから説明看板くらいは作っておくべきだ・・と、わざわざ戻って言いに来た。」と話しながら、その時に作った地図をコピーしてくれました。
その時は、へえぇぇ・・σ(*_*)みたいに「イザベラ・バード」の道をたどってる物好きな人も居るんだ・・と初めて知りました。
しかし、後でわかったのですが友達や同年代の人達の中には、けっこう「イザベラ・バード」に関心を持ってる人が多いよおです。
「渡し場」へ行く前に、町内にイザベラ・バードが泊まりそうな家を探しに行くと、羽州街道の何とか跡などが有り、先程「神宮寺駅」へ入った道は新しい道だった。
それにしても惜しいなぁ・・古い街道沿いなので、もおちっと「イザベラ・バード」に関する町興しをすれば良いのにぃ。
ブラントン氏の地図を調べて、雄物川を神宮寺から舟で下れるにちがいないと心に決めたのは少し前である。
いつもの群衆は、玄関のところに集まらずに、先に河の方へ行っていた。 川の両岸や木立の中に人が溢れていた。 4人の警官が私を案内して行った。
高梨健吉「イザベラ・バード 日本奥地紀行」より
雄物川の橋まで行くと、川は見えず広い公園になってます。
ここで失敗したのが、橋を渡って川の広さを写真に撮らなかった事で、今までの経験上どうせ細い川になってるだろおと思っちゃったのです。
地図で教えられた河原に降りて砂利道を行くと、途中に白い杭に「神宮寺浜跡」と書いてありました。
そこからは川が、ほとんど見えずに樹木や草が茂っており、あんまり「渡し場」的雰囲気ではない。
もっとも、昔は、この付近まで川があったのかもしれないが・・・。
恥ずかしながら「YouTube」に尺八独奏「惜別の唄」を載せており、聞いて頂ければ泣いて喜びます。
当「遍照の響き」ホームページに掲載されている写真がで販売されています。
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