HOME > 紀行文「目次」 > イザベラ・バードの道「地図と目次」(関東・東北編) > 88 小 繋
掲載日 2016.8.13 旅行日 2015.7.7
夕闇が迫ると霧雨も晴れて、絵のように美しい姿をした地方が見えてきた。 向こう岸の船着場に着いた。
そこは暗い森の中の深くて骨の折れる泥水で、私達はそこのひどい道を手さぐりで進み、やっと宿屋に来た。 深い霧が出てきて、雨はまたも大降りとなった。
この日の旅行で唯一の収穫は、一本のすばらしい百合であった。 それを宿の主人にあげたら、朝になると神棚の貴重な古薩摩焼の小さい花瓶の中で咲いていた。
高梨健吉「イザベラ・バード 日本奥地紀行」より
「小繋」集落に入る時、道端に石の道標と思ったら中に時計が埋め込んであり、ほほおぉぉ・・えらい珍しい物を作ったなぁ。
「小繋青年団」の銘板が入っており、調べてみると大正14年・昭和天皇御成婚記念に作ったらしい。
「小繋の船着場」跡は標識が有ったのですんなりと行け、案内杭には船着場の古絵図が貼ってありました(写真には草の一部が写っており、すんまへん)。
イザベラ・バードが書いてるように、船着場から「小繋」集落までは1kmほど離れており、今はタンボ道になっていますが、当時は木が茂った暗い森の中を歩いたのでしょう。
早く出発したが、道路は悪く、ぐすぐす遅れるので、ほとんど進まなかった。 道はほとんど通行不可能で、私の馬は5回も倒れた。
このような田舎では、駕籠も乗物も手に入らなかった。 駄馬だけが唯一の交通機関であった。
それから低い山々、多くの雑木林、広々とした水田、そして烈しい洪水があった。
高梨健吉「イザベラ・バード 日本奥地紀行」より
道を走ってると、山際に「山の神」の鳥居が草に埋もれて有りました。
先程の「二ツ井町歴史資料館」の説明書には、「山の神」の鳥居は一本の木だけで作り、その作る方法・作法・方向も厳しく代々伝わっているらしい。
資料館でその説明書きを見なかったら、フウゥ~・・ン・・鳥居が有るなぁ・・程度で終わり、そおいう云われ・「しきたり」も知らなかったと思う。
次の駅の津栗子(「綴子」)で、駅亭があまり汚かったので、私は雨の中を街路に腰を下ろしていなければならなかった。
これから一里先までしか行けないという。 橋はみな流され、渡し場も通行できないからであった。
高梨健吉「イザベラ・バード 日本奥地紀行」より
綴子の道の駅「たかのす」で一休み。
併設されている太鼓会館へ行ったら、入口で先客が「350円と言われている。」と仲間に話してるのを聞いて、どうしても見たい物でも無かったので回れ右をした。
しかし私は馬を雇って、英国人の頑固さと馬子の好意により、私は馬だけ単独に荷物をつけずに小さい平底船に乗せて、増水した早口川、岩瀬川、持田川を渡らせ、ついに古馴染の米代川の三つの支流を歩いて渡ることができた。
高梨健吉「イザベラ・バード 日本奥地紀行」より
国道から分かれて「長坂」へ向かって旧道を行くと、「長坂一里塚」が有りました。
イザベラ・バードが、どおしても・・と頑固に言い張り、増水した川を渡った「早口川」を調べてみると、昔は橋が無かったよおです。
これにちなんで「早口川の徒渡り」という行事が毎年有って、時代衣装を着て地元の小学生も参加しているらしく、ブログを拝見するとカワイイですねぇ。
私は川口という美しい場所にある古い村に滞在したらどうか、と言われたが、ここはあらゆるものが湿っていて黴臭く緑色であり、緑色と黒色の溝から出る悪臭はあたりに満ちて、そばを通るときでさえも耐えられないほどであった。
そこで大舘まで馬で行かねばならなかった。
高梨健吉「イザベラ・バード 日本奥地紀行」より
恥ずかしながら「YouTube」に尺八独奏「惜別の唄」を載せており、聞いて頂ければ泣いて喜びます。
当「遍照の響き」ホームページに掲載されている写真がで販売されています。
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