HOME > 紀行文「目次」  > 「国境の島、対馬」紀行文の「目次・地図」  > 18 神崎灯台 


神崎灯台・海上より、対馬 2019/5/19 旅行


「灯台守」としての逸話/神崎灯台・対馬

「内院」集落

内院、対馬   内院海岸、対馬   「内院」集落、対馬
      五輪塔、内院・対馬        宝篋印塔、内院・対馬

 対馬の最南端「神崎灯台」へ行く途中に「内院」という集落が有りますが、「対馬」在勤時はこの「内院」集落を訪れた事は有りませんでした。

 なんせ今と違って皆が車を持っている時代では無かったので、失礼ながら「厳原」からバスに乗ってまでわざわざ遊びに来るほどの集落でも無かった。

 今回この「内院」を訪れたのは、「木造校舎」巡りで「久田小学校・内院分校」の写真を撮るためでしたので、よろしかったら参照してください。

「浅藻」集落

「浅藻」、対馬   浅藻・レンガ造りの家、対馬   浅藻漁港より神崎灯台方面、対馬

 「浅藻」集落は、「神崎灯台」滞在勤務する時の出発地で、海の状態が良ければ灯台の真下に有る船着場まで船に乗って行き、岩場を上がって灯台へ行きました。

 海の状態が悪くて船着場に波が被っている時は、「浅藻」の海岸をグルッと回り、ほぼ対岸の墓場附近の小道から山越えをして灯台へ歩きました。

 約50年振りに「浅藻」集落へ来てみると、ほとんど当時の面影も無く、漁港は完全に整備されており、港近くのレンガ造りの家だけは記憶に残ってました。「浅藻」集落、対馬

 「浅藻」にも昔は木造校舎の「浅藻小学校」が有ったのですが、今は更地になっており、当時は木造校舎に興味が無かったので一度も学校には寄らなかったが、行っておけばよかったなぁ。

 その学校跡地を見てから集落の道に戻ると、地元民が4人ほど集まって話をしていたので挨拶をして、「自分は元「神崎灯台」の灯台守をしていたが、その時に灯台へ行く船を世話してくれたKさんの家はどこだったかわからなくなったが、どの辺だったろうか。」と尋ねました。

 ちょうど話をしていた人の一人がKさんの親戚の人で「数年前に亡くなり、店も無くなった」と教えてくれました。

 集まっていた4人も、自分が神崎灯台の灯台守だったとわかると、今までの胡散臭そうに見ていたのがコロッと変わり、親しみを込めて当時の灯台の話をしてくれます。

神崎灯台の想い出

滞在交代

 「神崎灯台」滞在勤務は、二人で十日間の交代勤務です。

 出発時は「厳原」に有る唯一のスーパーで10日分の食料を買い、それぞれの大型リュックに詰め込んで、前記の通り海の状態により、船で行くか徒歩で山越えをします。浅藻~神崎灯台の地図、対馬

 灯台への山道は、たまに灯台勤務者が歩くだけなので、踏み跡のような道筋が有って草が覆ってます。

 灯台へ行く人は各自が鎌を片手に持ち歩きながら適当に草を薙ぎ払い、今度は灯台から帰る人がその鎌を持って同じように歩きながら薙ぎ払いながら帰り、だいたい中間付近である「浅藻」「内院」「神崎灯台」の三差路で一休みします。

 対馬は「マムシ」の多い所らしく、この山道を歩く時は最初の一人がマムシを踏む可能性が高く、続いて歩いてた二人目にマムシが怒って噛みつく可能性が高いと言われており、歩く時の二人目の人は注意してました。

 もう灯台勤務者もいないので道は無くなってわからないだろおと思ってましたが、これを書いてる時にネットで調べると、たまに山越えして神崎灯台へ行った人がいるよおです。

 「対馬のバワースポット」という地図を拝見すると、「浅藻」から「神崎灯台」への道筋は合っていましたが、「内院」へは行ったことがありません。

 「神崎灯台」を語る時には、必ずと言って良いほど「黄金の泉」の話が出ますが、 そこに黄金が埋まっているとか隠してあるという話ではなく、その泉に関わった人が成功したという話です。

 泉と言えば湧き水をイメージしますが、むしろ「岩肌から滴り落ちる水が溜まる所」という感じの所で、オタマジャクシが泳いでおり、「オタマジャクシが居る水は飲む事が出来る」という話は、この灯台にいる時に初めて聞きました。

「退息所」

 「神崎灯台」は岩場に建設されているため水が湧かなく、「退息所」屋根に降った雨水を井戸に流して溜めて使用しており、井戸水が少なくなった時に「黄金の泉」成功者が灯台守家族のために水を汲む仕事をして成功したよおです。退息所・神崎灯台、対馬

 しばらく雨が降らなかった場合は、井戸に竹棹を指して水位を計り、後どれくらい水が持つか・・とハラハラしたりして、風呂をたてるのを制限した事は有りますが、自分が居た時は2名だけの滞在勤務だったので、幸い井戸水が無くなり「黄金の水」まで水を汲みに行く事は無かったです。

 しかし、それ以前に家族連れで神崎灯台に勤務してた、いわゆるホンマモンの灯台守の人達は、家族が居るので生活人数が多いため常に水が足りなく、水汲み人夫を雇わないといけなかっただろうと思います。

 たいていの灯台は水の不便な所に立っている箇所が多く、「喜びも悲しみも幾年月」の映画にも出てたように、灯台守の妻が米を研いだ後の水で顔を洗う・・というように水を大切に使っていたのはホントの事だったと思います。

 滞在交代する時に船か山越えの判断は、「退息所」から眼下の海に出ている平たい岩場に波が被っている状況を見て判断してました。船着場~神崎灯台、対馬

 そのすぐ近くに小さい船着場が有り、対馬海流をまともに受けている場所なので、船で交代可能であっても、たいてい船は上下左右に揺れて、波の状態を見ながら船着場に飛び移ったり船に飛び乗る事の方が多かった。

 船着場から「退息所」まで、岩場に上がる道は有りますが、食料を入れた重いリュックを担いで上がるのはキツかった。

 滞在交代の初日に食べる夕食は、山越えでも船交代でも疲れているので、食事はお湯で温めるだけのレトルトカレーが必ず定番でした。

 「退息所」と書いてますが、昔はそこに灯台守の家族が住んでいた官舎で、写真の「退息所」は左右に分かれた二世帯が住んでいたよおです。

 私が滞在勤務した時には、向かって右側で二人滞在者が生活し、左側がエンジンルームに改造されていましたが、最近の神崎灯台の写真を見ると「退息所」が見えないので取り壊されているように思う。

      無人化工事前の神崎灯台、対馬        無人化工事後の神崎灯台、対馬

 神崎灯台で滞在勤務していた時に「無人化工事」が始まり、工事前と後の写真を見比べると灯台の窓を閉鎖したため窓の数が減っており、おそらく工事前の写真は今となっては貴重だと思い、また最近の神崎灯台の写真を拝見すると、灯台屋根部分も少し傾斜しており新しくなったような気がする。

 「無人化工事」により、「太陽電池」パネルが「退息所」屋根にズラッと並べていました。

 この無人化工事の時、「浅藻」から小学3・4年生ほどの男2人・女1人の三人が山道を歩いて灯台へ遊びに来た事がありました。

 小さい子供達だけで、良く道を見つけて歩いて来たなぁと思い、翌週にも遊びに来ましたが、知ってる限りではその二回だけで、その時の工事業者は船で来て灯台に泊まり込んで仕事をしていました。

灯台の一日

 神崎灯台での1日は夜が主任務であり、灯台まで電気が来ていないため夕方4時頃からエンジンを動かして発電させ、当番の人が食事を作り始めるのと、厳原への定時連絡を無線でします。

 日没時頃に灯台を点灯させ、食事しながらテレビを見たり、本を読んだりして適当に過ごしますが、夜の重大任務として、外に出てチッコしながら神崎灯台が異常なく光っているのと、豆酘埼灯台の光もついでに確認します。退息所・海軍望楼・神崎灯台、対馬

 灯台確認も重大ですが、それよりも外に出て石垣の所からチッコするのも、もんのすごく大切なのです。

 というのは退息所のトイレは、ポットン汲み取り式なので、ウンコは仕方がないとしても、チッコまでトイレですると、すぐにポットン内部が一杯になっちまうので、チッコはなるべく外でする事になってました。

 でもポットン内部は、いつかは一杯になるので、その時は一人2缶の割り当てでウンコを汲み出して、近くの畑に掘った穴に捨てる作業をしなければアカンのです。

 当然そんなウンコ取りなんぞ、なるべくしたくないので、皆文句も言わず外でチッコをしていました。

 昔はレンズを回転させるのに分銅を巻き上げるため、必ず「灯室(レンズの有る部屋)」で夜間は起きていましたが、私が勤務していた時は電化されてモーターでレンズを回転させているため起きてなくても良かった。

 ちなみに灯台守の人達は全体的に字が上手で、昔の人に聞くと夜間「灯室」で勤務している時にヒマだがする事もなく、幸い灯りが有る部屋なので字の勉強をしていそうです。

 レンズと言えば「灯台守の命」と言われるほど、毎日レンズを磨いていたそうで、当時はランプを使用しており、その煤がレンズに付着したので拭く必要がありました。

 しかし自分が滞在勤務の時には電化されていたので、レンズに煤が付く事は無かったのですが、それでもホコリが付着するので滞在交代最後の日にレンズを磨きました。

 ちなみに古い灯台には必ず「玻璃板瑕瑾簿(はりはんかきんぼ)」というのが有り、それにはレンズの図面を描かれ、レンズ制作時に出来た気泡の位置、および傷・欠けの位置・大きさが正確に記載されてます。

 そしてオトロシイ事に閻魔帳のようにレンズの傷・欠けが何時、どのような理由で出来たかの来歴が記載されており、そんな閻魔帳に記載されるような不名誉の事はしたくないので、細心の注意を払ってレンズに接していたよおです。

 日の出時間になると燃料がもったいないのでエンジンを止め、9時頃に再びエンジンを回して厳原への定時連絡と食事を作り、10時頃に再びエンジンを止めて夕方までエンジンを回しません。

 このようにエンジンを運転するのは、灯台の光を出してその機能を維持させるためであり、滞在する人間のためにはオマケで運転するだけで、当然エンジンが止まっている時は厳原との無線連絡は全くできません。

 「退息所」から天気の良い日は「壱岐」が良く見え、たまに九州本土も微かに見える事が有ります。神崎灯台2、対馬

 夜、自室で二級無線技術士の勉強をしていた時、季節になると夜には漁火が壱岐との間に一杯見えました。

 この神崎灯台が灯台守としての初任地だったので何もわからず、日中は決められた作業以外はする事もなくヒマなので、先輩に「このようにヒマなのに、給料をもらうのは気が引けるのだが・・」と言うと、「ここにいるのが仕事だ」と言われました。

 この意味は「もし灯台が壊れた時、即時に対応するためだ」という意味で、神崎灯台に異常が有った場合、厳原から灯台まで駆け付けるのは時間が掛かり過ぎます、いわゆる「無用の用」という訳です。

 その代わり故障が起きた時は、飯を食わずに復旧作業をし続け、第一に光を出す事、第二に光質(点滅周期)の確保で、どんな事をしてでも灯台の灯を消さないという「守灯精神」が当時は有りました。

 幸い神崎灯台では無かったですが、他の灯台が雷障害で消灯した時は、たとえ風雨の夜中でも灯台に駆け付け、復旧作業に全力をつくした事が有ります。

 聞いた話ですが、他の灯台で光の確保は出来たが、どうしてもレンズを回す事が出来なかったので、夜の間ずうっ~とレンズを手で回し続けて朝まで待ったという話を聞いた事があります。神崎灯台3、対馬

 灯台滞在勤務は二人きりで10日間、他にだれも来ず生活に変化が無く単調になり、ゴロゴロ寝てばかりの楽な生活にしようと思えば出来るので、以前は実際にそのような生活をしていたらしいです。

 しかし、ある先輩がこれではダメだ、なるべく外に出るように何かをしないと・・と「釣り」をし始め、他の人にも勧めた結果、これが当時の人達の間でけっこう流行しました。

 船着場付近は釣り場に最適で、退息所の壁には大型の石鯛や2mほどの太刀魚、さまざまの大きな魚の魚拓が貼って有ります。

 太刀魚を釣り上げた人の話では、海面まで引き上げた時に、海面で白いギラギした怪物が懐中電灯に照らし出され糸が切れて釣り落としたそうです。

 それから「あそこには怪物が居る」という話になり、二度目の挑戦で釣り上げたら太刀魚だったという事です。

 自分は釣りには興味が無かったので、「囲碁」を徹底的に教わりました。

戦時中の空襲

 戦時中は、神崎灯台も空襲を受けたそうで、退息所付近に爆弾が一発落とされたらしく、近くの山肌に大きな穴の防空壕が残ってました。神崎灯台4、対馬

 この防空壕には逸話があり、空襲後に視察官が神崎灯台を訪れたが、出迎えもなく退息所にも人影が無い。

 これは空襲で灯台職員・家族は全滅したかと思いながら防空壕へ近寄り、中に声を掛けると暗い穴の奥から髭モジャの小汚い男がヌッと出て来て、視察官が思わず後退りしたという話があります。

 防空壕入口付近には、木材の資材等やガラクタが置いてあり、中へ入ろうと思えば入れたのですが「マムシが居るから入るな」と言われてたので入らずじまいでした。

「喜びも悲しみも・・」

 話は変わって、灯台守と言えども聖人君子や人格者ばかりではなく、そこは人間なので、好き・キライな間柄もあります。

 気が合う人と一緒の滞在10日間は楽しく天国なのですが、気が合わない人と一緒ならば、そりゃあぁ~何とも言えない気分になるのは、どこの社会でも一緒でしょう。

 家族を連れての灯台守勤務の場合にも、やはり合う・合わない、あるいは上下関係等や気遣い等でかなり軋轢も有った事もあるよおで、これはかなりキツかったと思う。

 現代の社宅関係と同じかもしれませんが、灯台の場合は敷地付近だけの狭い場所で逃げ場が無く、スーパーへ買い出しに行くとか、会わないようにどこかへ行く等の避ける事ができません。

 どうしても日々顔を合わせなければアカンので、そおいう意味では現在の社宅以上に辛かったと思い、こおいう話はあまり・・いやほとんど表に出ない事ですが・・・「喜びも悲しみも幾年月」の映画では完全にボカシし隠しています。

 灯台守が住むところは職場と直結しており、また普段生活する「退息所」はプライバシー保護という観点が現在ほど完全では無く、壁は有りますがほとんど隣の家の状況は筒抜けに近い状態のようだったらしいです。

 ホントの「喜びも悲しみも」は、灯台が有る僻地生活の事よりも、家族も含めて限られた行動範囲内でプライバシーの無い人間関係だったと思う。神崎灯台5、対馬

 「自分は灯台守だった」と言うと、必ず「喜びも悲しみも・・」の映画を引き合いに出されて「タイヘンだったでしょう。」と良く言われ、「いや、それほどでも・・仕事もせずに、サボッテばかりでしたので・・エヘヘ・・すんません。」と正直に答えても、謙遜されてるのだと思われちゃいます。

 「灯台守」の歌なんぞを聞かされちゃうと・・もう心が痛みまくって穴を掘って隠れたくなります。

 なので前職は何をしていたかと聞かれない限り、また自分からは必要ない限り灯台守だったとは言いませんでした。

 灯台守としての実際の勤務内容・生活は、ほとんど世に出ていなく、また出ていてもキレイな「喜びも悲しみも・・」的な話ばかりで、ホンマの実体験というか実情は出ていないように思う。

 ここに書いた逸話は、関係者や見る人によっては、ヒンシュクを買うかもしれず、すみません。

 以上のような事を知っているのは私の年代位までであり、今後も表に出る事は無く封印されるでしょう。

 私が灯台守として滞在勤務した場所は、他に佐渡・弾埼灯台、輪島沖の舳倉島灯台でしたが、やはり初任地であるこの神崎灯台が一番想い出に残ります。


 小茂田、対馬←前頁「小茂田」へ    次頁「豆酘崎灯台」へ→豆酘崎灯台、対馬


 恥ずかしながら「YouTube」に尺八独奏「惜別の唄」を載せており、聞いて頂ければ泣いて喜びます。

 当「遍照の響き」ホームページに掲載されている写真がpixtaで販売されています。


以下、広告です。


老後の趣味に憧れのピアノを始めてみませんか?  
 <レンタルボックス>の種類・料金を見る
 <レンタルボックス>を自宅周辺で探す  

  中学英語を使える英語に!