青森港付近の名も知らないチッコイ公園の駐車場に車を置き、近くに係留されている青函連絡船「八甲田丸」を見物し、近くの岸壁には「津軽海峡冬景色」の歌謡碑もあります。
「八甲田丸」は、想像していた船よりも小さく思え、船橋には白い制服を着た、船長スタイルのガイドもいます。
上甲板には「煙突展望台」が有り、煙突の中を通って上の展望台まで上がれます。
普通の人は船の煙突の中なんて見る機会なんて、まず有りまへんでしょうなぁ。
煙突ちゅうもんは、たぶん煤だらけの大きい空洞だと思ってるでしょうが、写真のように内部には太いパイプが数本入っており、たぶん写真の左側の太いパイプが主機、手前のやや細いパイプがボイラー・補機の煙突だと思う。
船乗りでない限り絶対に見る事ができない、煙突の中身が見れまっせぇ。!(^^)!
下へ降りると、さすが列車を積み込んで北海道まで運んだ連絡船だけあって、実物の列車なども車両甲板に数両展示されてます。
σ(*_*)は列車関係には、ほとんど興味が無いのでサラッと見ただけでしたが、マニアの人だったら、たぶんジックリと見るじゃろなぁ。
最下部のエンジンルーム・・油の臭いが懐かしいでんなぁ。
40年ほど前にσ(*_*)が船に乗っていた時は、暑くてヤカマシイ機関室で、主機の前に折り畳み椅子を置いて座って当直してました。
今じゃあぁ、「当直室」と言うのかな?・・エンジンルームが見渡せるクーラーの効いた別室で、エンジン状況のメータ類が並んでいる卓台前に座って当直をするようで、ええ時代になりましたなぁ。
あっ・・σ(*_*)は機関の一番下っ端で、どうしょうもねぇ全く役に立たん人間でした。(^O^)
機関員は、航海中はほとんどヒマで、1時間に一度程度メータチエックと機器の見回り・注油する程度で、モクをふかしながら早く当直交代にならんかなぁ・・と待ってました。
機関室での連絡手段は、なんせヤカマシイ所に居るもんだから、近寄って大声でないと話しも出来ないから、簡単な連絡は、たいてい手先信号が決まっており、それで済みます。
まずは、手を叩いて相手をこちらに向かせてから・・・・
指先を口に持っていくと・・・海水(塩っぱい味がするから)
コップを口に持って飲むマネすると・・・真水
両手で双眼鏡で見ている形にすると・・・見てこい
たいていの船は、機関室は船底付近で、しかも中央付近に設置されており、そのため船が揺れても中心付近なので、揺れが少ない場所だと言われてます。
ちなみに船で一番揺れる場所は船首箇所で、揺れが少ない箇所は船尾だと言われてます。
聞いた話ですが漁船では、船首付近の一番ガブル(揺れる事)箇所に、若い下っ端が部屋を割り当てられて鍛えられてると先輩たちから散々言われました。
σ(*_*)が乗ってた船では、逆で船首付近は士官部屋、船尾付近はその他大勢の下っ端の部屋でしたが、なんでか、わかりまへん・・たぶん昔からの風習だと思います。
「八甲田丸」の船首方向に、巡視船「おいらせ」が接岸しており、σ(*_*)が乗っていた船も、これ位の大きさでした。
青森駅の近くに「のっけ丼」というのが有り、有名らしいので行ってみました。
あまり広くない通りを行くと「のっけ丼」の幟が立っており、早朝のためか店の前には、まだ片づけてない発泡スチロール箱が山積みになってます。
店内は3列の魚市場のようになっており、初めて来たσ(*_*)みたいなイナカモンが、キョロキョロしていると、ネーチャンが近寄って来て「初めてか?」と聞いて、システムを説明してくれ、ここは専従でシステムを説明をする人が居るんですねぇ。
「店内に有る2カ所の所でご飯を買い、市場を回りながら自分の好きな食材をご飯に乗せてもらい、3カ所有るベンチの所で食べられます。」
よっしゃあぁ・・まず一回りして、どんな物が有るかと巡察すると、ちっこいマッチ箱のような箱や銀紙に食材が入っており、それが1個だいたい100円程度。
計算しやすいように、ほぼ100円で統一してるのかもしれない。
まずご飯を買い、「大・小」と有りますが「小」で100円・・ウロウロと、ご飯が入ってるカップを大事そうに持って回りましたが、他の場所だったら、その姿は「何か恵んでくれぇ~・・」という風に見えるじゃろなぁ。
適当に食材を買うと、市場の人も心得たもんで、すんなりご飯に食材を乗せてくれます。
味噌汁も売ってるのを確認し、まずは食べる席を探すと、先程の説明係りの人が「ここ空いてます」と教えてくれ、席に着いて「のっけ丼」を越後屋に番をさせ、味噌汁(100円)を買ってきた。
カシコイ人は、先に荷物を置いて場所取りをしてから、買いに回るようです。
「三内丸山遺跡」つうのも、青森観光にお勧めの場所だとネットに書いてあったので、施設に入ると、いきなりドデカイ土器がデエェ~ン・・おぉぉぉ!!
施設内で映画を見終わると、ちょうどボランティアが説明する時間だったので集合場所に集まり、ゾロゾロと付いて屋外へ行きます。
まず説明を受けたのは、「三内丸山遺跡」施設を出た所の広い道路が、実は縄文時代の道を同じように復元したものだという事で・・はりゃあぁぁ~!!・・と、ドキモを抜かれる。
縄文時代と言えば、学校で狩猟生活をしていたと習い、道も獣道のような細い道しか想像してなかったが、なぜこのような広い道路が必要だったのかは、わからんらしい。
説明を聞かなかったら、単なる普通の散策道路だと思っちまうだろなぁ。
ボランティアの説明を聞くと、縄文時代の人達は教科書で習ったような場当たり的な生活をしていたのではなく、もっと深い事を考えて生活していたよおです。
ボランテイァの説明は面白くて笑え、わかり易くて最高のガイドでした。
このボランティアの説明を聞かなければ、この施設へ来てもフ~ン・・と見るだけで終わり、縄文時代の人がどのような生活していたのかわからんかったと思う。
ここへ来た時には、ぜひボランテイァに付いて説明を聞いてください、今まで知らなかった縄文時代の世界がわかり興味が倍加されます。
それにしてもボランテイァと言えば、どうしても思い出して比較しちゃうのが、長野県「象山地下壕」の「自称お金を貰うボランテイァ」です。
「金を払ってない者は、前に出るんじゃねぇ」とか、歪曲してねじ曲げた自分の主義主張を押しつけるような事は、「三内丸山遺跡」のボランテイアの人は絶対に言いませんでした。
わからない事は「わからない」と言って想像の説明はせず、「学説には、このような説も有るが、どれが正しいとは私は言えない」とハッキリ言います。
三内丸山遺跡のシンボルのようになっている6本柱の中途半端な、物見櫓のような物も用途がわからなく、柱の穴から計算すると、あのような形になるらしい。
写真で撮ると小さく見えますが、近寄るとけっこう大きく、ちなみに東日本震災の津波は、この6本柱の高さよりも高かったそうな。
この「三内丸山遺跡」の住居建物跡は、勝手に適当にその場所に作ったのではなく、ちゃんと柱の穴が残っていた位置に柱の太さや間隔などから作ったもので、建物だけは想像で作ったが、各々の住宅間取り・位置は縄文時代の遺跡と同じだそうな。
「大型竪穴住宅跡」の中にも入りましたが、かなり広く50人位は生活できそうで、縄文時代にこのような大きな住宅で生活していたと、今まで習った教科書に載ってたじゃろうか?
ゴミ捨て場や墓も位置を決めていたらしく、メンドウだから適当に、そこらに捨てたり作ったのでは無いらしい。
別の場所で遺跡の発掘現場も見る事ができ、実は遺跡発掘現場つうのを今まで見た事が無かったのです。
側溝のような所にポツン・ポツン・・と凸型取って盛り上がってる所が有り、担当者の人に聞いてみると、発掘した時に土器らしい物を見つけた時に、場所を動かさずその周囲を掘り下げたため、あのような形になったそうな。
ただ、それが土器の破片であるか、単なる石かは後日に調査するそうで、発見位置・地表からの深さ等のデータを取るまで、そのような形にしておくらしい。
「三内丸山遺跡」施設内へ戻って、土偶やら何やらが展示されるのを見ました。
「縄文ポシエット」が、この期間に限り展示され、以後は公開予定が無いので、ぜひ見るように勧められ写真撮影もOKでした。
「縄文ポシェット」はガラス箱の中に入れて展示されており、高さは30cm位で、袋の編み方は交互に編む方法で現代にも通用すると思う。
縄文時代の人が、これを編み、また物を入れるという知識が有ったというのは、スゴイでんなぁ、猿程度の知能じゃ、こんなの作れまへんでぇ。
今から1万数千年前に、1万年近くの長期間栄えた縄文時代・・・・
それから考えると現在は聖徳太子が活躍されてから、わずかまだ1500年ほどしか歴史が無いのですねぇ。
広い道路・ゴミ捨て場・墓・大型住居・ポシュエット・・・現在の人達に匹敵するほど縄文時代の人達は、想像以上にカシコかったのだ。
今までの「教科書内容を塗り替える発見の三内丸山遺跡」と言われるのも、わかるような気がする。
こんな「三内丸山遺跡」の施設が無料で公開されてるなんて、青森県も太っ腹だなぁ。
越後屋も、ここは「青森県の見所」だったと感心してました。
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