HOME > 紀行文「目次」 > イザベラ・バードの道地図と「目次」(関東・東北編) 45 新発田街道
旅行日 2015.7.3 掲載日 2016.3.2
イザベラ・バードは、新潟に到着して数日間過ごしたようです。
当時の新潟は、運河が有って水運が盛んだったようですが、今は新潟市内はビルが立ち並び、ほとんど昔の面影はありません。
なもんで、新潟滞在している箇所はザックリと飛ばして「ズル」する事にして、イザベラ・バードが新潟の「木崎」から舟を下りて出発した所より青森まで、「チョイノリ」で走る事にしました。
ちなみに青森まで6日間かかりました。
なお、新潟・山形県境付近にある「十三峠」は、別の日に越後屋と二人して歩きましたが、このホームページでは時系列ではなく道順で掲載していきます。
写真は出発時の「チョイノリ」の勇姿で、ハンドル付近に地図を掛かけて、すぐに確認できるようにしてました。
しかし、よぉ~まぁ~・・こんなので青森まで往復したもんだ。(^O^)
船は棹を使って6時間ほど難航した後に木崎に着いた。 正確に10マイルきたことになる。
高梨健吉「イザベラ・バード 日本奥地紀行」より
10時頃に家を出て、さんざん道に迷って、よおやく新潟・木崎付近に来ました。
「競馬場入口」バス停が有ったのでベンチに座って、途中で買ったオコワと天ぷらを昼飯代わりに食べ、飯を食って落ち着いてから、改めて地図を見ると、ちょうど出発予定地点の付近です。
すぐ近くの交差点から、新発田街道に入ると、ちゃんと「新発田街道」の説明看板もありました。
この「新発田街道」については、計画段階まで存在を知らず、ネットで下調べしてた時に初めてわかったので、たぶんイザベラ・バードも、この付近で舟から上陸したのだと思う。
街道脇にも川が有りましたが、とても舟が入れるほどの広い川では無く、手漕ぎボートさえも入るのが難しいと思うような小川でした。
たぶん川を潰して、タンボにしちゃったのでないかな。
今日の旅行はどこも人家がかなり多かった。 農業を営む村が長く続いていて、筑地、笠柳、真野、真理などは清潔な部落であった。
農家は道路から見えないように竹の垣根がしてあるところが多かった。
高梨健吉「イザベラ・バード 日本奥地紀行」より
「木崎」の寺付近でタンボの中を行く「笠柳」に向かう予定でしたが、新発田街道がそのまま真っ直ぐに続いてたので、そのまま進みました。
なんせこの辺は、イザベラ・バードが書いてる地名だけが頼りなので、実際にイザベラ・バードが行った道は、わかりまへん。
「内島見」集落の家に看板が有り、その家で天皇巡幸の時に休まれた家らしく、時期を見るとイザベラ・バードが来た時よりも数ヶ月遅れて巡幸が有ったようです。
「福島潟放水路」の橋を渡り、いかにも街道らしい道を行きましたが(一番上の写真)、その先を少し行くと、どうも「笠柳」方向から外れるように思い地図を確認しました。
やっぱり予定地よりも、徐々に離れて行くようなので、先程、橋を渡った「放水路」まで戻り、川沿いに上って「笠柳」集落へ入りました。
「笠柳」からも道が延びており、そのまま行くと「掘割橋」が有り「藤寄」の地名看板が出ています。
いかにもこのまま進めばよさそうな旧道でしたが、予定している「佐々木」を通過しないしなぁ・・
イザベラちゃんが書いてる「真野」へは、距離的には、それほど変わりませんが、さんざん迷ったあげく予定通り「佐々木」へ向かう事にして土手から県道へ出ました。
「佐々木」へ来ると、越後33観音霊場巡りの時に通った「佐々木聖徳太子」の神社が有り、一度通っただけなのに覚えているもんで懐かしく、「追分」の四辻も見覚えが有ったので写真を撮りました。
土はとても軽くて、砂地であった。 砂山には細長いスコットランド樅に似た松林だけであった。
しかし、丘陵と丘陵との間の低地は菜園のように・・・すばらしい作物を作っていた。
高梨健吉「イザベラ・バード 日本奥地紀行」より
県道は、ほとんど家が立ち並んでいますが、「桃山」付近で畑が広がり、イザベラ・バードも、このような風景を見たのでしょう。
「真野」の小さい川を渡り、すぐ近くに旧道らしいのがあったので、そこを通ると途中に有った神社が祭りらしく、鳥居に幟と提灯が飾ってあります。
車も止まってましたが、お囃子等の賑わいが無く、静かな祭りのよおです。
恥ずかしながら「YouTube」に尺八独奏「惜別の唄」を載せており、聞いて頂ければ泣いて喜びます。
当「遍照の響き」ホームページに掲載されている写真がで販売されています。
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